ら?――夢ではない)
 と、思った瞬間――部屋の中が、急に、四方から狭められたように感じられてきて、畳が、四方の隅から、じりじりと、押上がってくるように思えた。
 七瀬の手は、いつの間にか、守り刀の袋へかかっていた。眼は、恐怖に輝きながら、廻転している霧を、睨みつけていると、霧が気味悪い、青紫色にぎらぎらと光るようにも見えたし、光ったのは眼の迷いであるような――そして、自分の眼が、何うかしていると、じっと、眺めると、その霧の中に凄い眼が、それは、人間の眼であったが、悪魔の光を放っている眼であった。
「あっ」
 と、叫んだが、声が出なかった。
(これが、寛之助様に――)
 と、思ったが、手も、足も、身体も、動かなかった。急に、青紫色の光が、急速度で、廻転すると共に、その光る眼の周囲に、人の顔らしいものが現れたように感じた。痩せた、鋭い顔であった。
 七瀬は、動かぬ手を、全身の力で動かそうとしながら、一念を凝《こ》めて
(こいつを、退散させたら――)
 と、全精神力を込めて、睨みつけた瞬間、寛之助が
「ああっ」
 と、叫んで、両手を、蒲団から突き出すと、顫えたまま、左右へ振って
「こわいっ――」
 七瀬が、その声に、寛之助を眺めて、はっと胸を押されると、部屋は、前のように明るく、その灯の下で、寛之助が、汗をにじませて、恐怖に眼をいっぱいに開いているだけであった。
「和子様っ」
 と、上から、抱くと、寛之助は、身体を、がたがた顫わせて、しっかりと抱きついた。七瀬の頬に触れた寛之助の額は、ただの熱でなく、熱かった。
 長いようでもあったし、短いようでもあった。ほんの瞬間、疲れから、夢を見たような気もしたし、本当に、奇怪な事が起ったようにも思えたし――七瀬には、判断がつかなかった。ただ、鋭い眼だけは、頭の隅に、閃いていた。

 侍女が、つつましく、襖を開けるのさえ、もどかしかった。顔が見えると、すぐ
「方庵を――」
 侍女は、立って入ろうとした。
「方庵を、早く――」
 侍女は、七瀬の声と、顔が、ただでないのを見て、襖を閉め残したまま、小走りに行った。
 寛之助は、熱い額を、頬を、七瀬の肌へ押しつけて、獅噛《しが》みついていた。寝かせようと、下へ置こうとすると、咽喉《のど》の奥から叫んで、置かれまいとした。
「七瀬がおります。七瀬がおります」
 背を軽く叩いて、顫える寛之助を
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