手ではおよばぬ――」
「なら、天命だ」
左源太は、それ以上、斉彬に云えなかったから、英姫に
「よもやとは思いまするが、例《ためし》のあること。油断せぬに、しくはござりませぬ。典医、侍女の方は、某《それがし》が、見張りますから、夜詰の人に、政岡如き女を――」
と、すすめて、そして、七瀬が、選まれることになったのであった。病間夜詰と、きまった時、仙波八郎太は
「寛之助様は御世継ぎじゃで、もしものことが、おありなされたら、ここの敷居を跨げると思うな」
と、云い渡した。小身者の仙波として、七瀬が首尾よく勤めたなら、出世の緒《いとぐち》をつかんだことになるし、他人に代った験《しるし》が無かったなら、面目として、女房を、そのままには捨て置けなかった。
「心して、勤めまする」
と、答えて来たが、夜の詰をして、三日目の今夜は、いつになく、気が滅入って、何うしたのか、怯け心が出て来た。
灯が、暗いようなので、心《しん》を切ろうと、じっと、灯を見つめながら、手を延そうとすると、部屋中が、急に薄暗くなって、天井が、壁が、畳が、襖が、四方上下から、自分を包みに来るように感じた。
七瀬は、脚下から寒さに襲われた。はっとして、手を引くと、心を落ちつけようと、努力しながら、四方を見廻した。
床の間には重豪の編輯《へんしゅう》した「成形図説」の入った大きい木の函があったし、洋式鉄砲、香炉、掛物の万国地図。それから、棚には呼遠筒が、薄く光っていた。
誰かを呼びたい、ような気もしたが、自分の気の迷いで、人を呼ぶのも恥かしかったから、心切《しんき》りを持ち直して、燭台を見ると、前よりも薄暗いようであった。蝋燭の灯が、妙に黄ばんでいて、蔀屋の中が、乳白色の、霧のようなもので、満たされているようであった。
(和子《わこ》は――)
と、寛之助を見ると、よく眠入っているし、その愛らしい睫毛さえ、はっきりと判ったから、安心して、部屋の異状を、見定めようとすると、その乳白色の空気が、薄暗い屏風の背後へ、流れ込むように動いていた。
七瀬は、蒼白になって、息をつめて、膝を握りながら、自分の恐怖心にまけまいと、それを、じっと眺めていると、霧の固まりが屏風の背後で、ぐるぐる廻り出したように見えた。そして、屏風が、はっきりと眼に見えていながら、屏風の後方が、屏風を透して見えているように思えた。
(夢かし
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