するため、軒下に立ったり、往来へ出て見たりしていた宿の女中が、番頭が、周章てて、駈け寄ってきた。
「お疲れ様で」
とか
「先刻のお方様で」
とか、という御世辞を聞き流して、奥まった部屋へ入った。
表の人声と、ざわめきとは、未だ止まなかった。綱手と、七瀬とは、不安そうに、宿の人々が、部屋から出てしまうと、七瀬が
「まあ、嬉しいやら、びっくりやら――何んと思うて、あの、下僕《しもべ》の真似など?」
「隣りの騒ぎを御存じか」
「御存じか、とは?――騒いでいるのは、判っておりますが――」
「わしの手下の者が捕縛されたのじゃ、小母御。関所の刻限に一寸遅れたばかりに、小太郎にも逢えず――然し、これが、世の中の常で、一つの仕事を成就させるには、こうした蹉跌《さてつ》が、いろいろと起る。綱手、そいつにめげてはならぬ」
益満は、脚絆を畳んでいる綱手を見ながら、茶を飲んで
「国乱れて、忠臣現れ、家貧しゅうして孝子出づ。苦難多くして現れ出づ、男子の真骨頂。いよいよ益満が、軽輩を背負って立つ時が参った」
益満が、三尺余りの長刀を撫して、柱に凭れて腕組しながら、こう云って笑っているのを見ると、七瀬も、綱手も、何んとなく、心丈夫であり、頼もしく思えた。綱手は
(益満様なら、夫にでも――)
と、心の中で囁きながら、さっき山の中で、生れて初めて、ぴったり、肉に、肌に、血に触れ合った男の暖かさを思い出した。そして、益満を、そっと盗み見した。
「討手は、小太郎に、もう追いつく時分でござりましょうか」
「追いつくかもしれぬ。追いつけぬかもしれぬ。然し、何れにもせよ、小太も、相当に、心得はある。やみやみ、五人、七人を対手にして、斬られる奴でもない。それに、こつこつ石の如き親爺がついておる。これが、一見頑固無双に見えていて、なかなか変通なところがある。本街道を避けて、裏を行けば、大井川までは、首尾よく参ろう。ここを無事に通れば、京までは、先ず無事――」
こういっている時、旅舎の番頭が
「明日、早朝お立ちでございましょうか。御弁当の御用意、それから、関所切手――なかなか、きびしゅうござりますゆえ、もし、御都合で、お持ちがなければ、手前共で、何んとか御便宜を――」
といって来た。
「切手は、持っております。御弁当と、それから、達者な駕人足とを、御頼み申します。時刻は、六つ前――」
「かしこまりま
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