睨んだ。
「旦那、手荒いことは」
 駕屋が、侍を止めた。
「素浪人分際の女として、無礼呼ばわり――」
「これが無礼でなくて――」
 と、七瀬が、ふるえ声でいった時、一梃の駕が、手負のところへ行き、一人が、手負を抱いて駕の中へ入れた。綱手は、母を片手で押えながら
「駕は、二梃共、御入用?」
 侍は、落ちついた綱手の態度と、その美しさと、物柔かさとに、挫けながら
「一梃でよい――無礼な」
 と、呟いて、駕の方へ去った。七瀬は、身体を顫わせていた。
「お母様、お駕へ。妾は、歩いて参ります」
 七瀬は、涙をためて、侍の方を睨んでいた。
「あれっ、彼処《あそこ》に一人死んでいる」
 と、駕屋は指さして、低く云った。

 遥かに、芦の湖が展開して来た。沈鬱な色をして、低い灰色の雲を写していた。
「益満氏、益満氏ではないか」
 後方から、絶叫した者があった。益満が振向くと、右手に刀を提げた三人の浪人が、走って来た。益満が、駕の中から、右手を挙げた。浪人が、近づいて
「奈良崎氏と、羽鳥とが、やられた」
「刀を拭いて――関所が、近い」
 三人は、刀を拭いて納めた。
「ここへ来る道で、一人は膝を切られ、二人は無疵で――」
「逢うた。お互に、顔を知らぬし、怪しいとは存じたが、睨み合ったままで、擦れちがった」
「女二人に、一人は四十近い、一人は十八九の」
「それとは、死体の転がっていた辺で――」
 益満は、頷いて
「何うじゃ、真剣の味は?」
「駕屋、咽喉が乾いたが、その水を」
 一人が、駕の後方に、下げてある竹筒の水を指した。
「さあ、お飲みなすって。大層、血が――」
「少しかすられた」
 三人は、そういわれて、自分達の疵の痛みを感じてきた。交る交る竹筒の水を飲んで、着物を直しながら
「凄かったのう、あの示現流の、奈良崎を斬った男の腕は」
「一木か、あれは出来る」
 と、益満は答えて
「駕屋、もう六つ近いであろう」
「へえ、空の色から申しますと、もうすぐでござります」
 駕屋は顔色を変えていた。
「関所の時刻に間に合うか」
 駕は、急坂の石敷道へかかっていた。駕屋は、駕を、真横担いにして、一足ずつ降りかけた。
「さあ、但州、何うだの」
「さあ、急いだら、然し、何うかのう」
 益満は、手早く、金を取出して
「降りる。駄賃は、町までのを、これは、別に口止料」
 と、いって、金を差出して、片手で
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