、待《ま》あて、と」
「おうおう、芝居がかりかい」
「待てと、お止《とど》めなされしは?」
「音羽屋っ」
「東西東西、静かにしてくれ、ここが正念場だ」
 旅人は、七瀬が、綱手が、何う考えているかも察しないで、綱手を、じろじろ見ながら、巫山戯ていた。
「その、果合《はたしあい》の場所は?」
 と、七瀬が聞くと
「この二三町上でさあ。のう、待てと、お止めなされしは――」
「おや、眼を剥いたよ。豆腐屋あ」
「有難う存じました。駕屋さん、急いで」
 駕が上った。
「いい御器量だのう」
「吉原にもいまい」
「ぶるぶるとするのう」
「首を見ては、ぶるぶる、女を見てはぶうるぶる」
 人々は、遠ざかった。行きちがう人々は、悉《ことごと》く、血腥《ちなまぐさ》い話を、声高にして、行った。駕が、山角を曲ると、草叢のところに、旅人が集まっていて、菅笠や、手拭頭が動いていた。
「あれだっ」
 と、駕屋が、叫んだ。二人は、駕の縁を握りしめながら、夫と、父とが、子と、兄とが、その中にいないように祈っていた。いないとわかっていても、何んだか、どっかで、斬られているような気がした。

 四梃の駕が、急いでいた。そのすぐ後方から、一梃の駕が
「頼ん」
 と、声をかけて、崖っぷちを、擦れ擦れに追い抜こうとした。一梃抜き、二梃抜き、三梃目のを抜いた時、その駕の中の侍が
「待てっ、待てっ、待てっ。とめろ、止めろっ」
 と、怒鳴った。駕屋が、周章てて、駕を止めると
「益満っ、待てっ」
 三梃目の侍が、刀を提げて、駕から、跣足のまま跳び降りて、抜いて行った駕を、追うと同時に、他の人々も、駕を出て、走りすがった。
「その駕。待てっ、益満」
 六七間のところで叫ぶと、抜いて行った駕がとまって、益満が、口から煙草の煙を吐きながら、駕の中から振向いた。そして
「おおっ」
 と、微笑して
「これは、御無礼」
 追って来た侍は、真赤な顔をして、袴を左手で掴み上げながら
「出い、駕を出い」
 益満は、頷いて、刀を左手に、駕を出た。見知らぬ浪人者が、腕|捲《まく》りして、三人、益満を睨んで、三方から取巻いた。駕屋が、恐る恐る、駕を人々のところから引出して、道傍で、不安そうに、囁き合っていた。
「何れへ参る?」
「さあ、何れへ――」
 益満は、ゆっくり、腰へ刀を差してから、喫い残りの煙管を、口へ当てて
「当途《あてど》も無く」
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