であろうが、かかる運命になった上は是非もない――ただ――如何なる苦しみ、悲しみが押寄せようとも、必ず、勇気を失うなよ。じっと、耐えて、その苦しさ、悲しさを凝視めてみるのじゃ。それに、巻き込まれず、打挫《うちくじ》かれずに、正面から引組んで味わってみるのじゃ。そうすると、何故、自分は、こんなに、苦しめられるのか? 悲しまされるのか、だんだんわかってくる。誰が苦しめるのか? 何んのために、悲しまされるのか? それを、よく考えて、その苦しませる奴と戦う――ここから、その悪い運が、明るく開けてくる。よいか」
 深雪は、頷いた。
「それで、小父上から、あずかっておいたが――」
 益満は、袋に入った短刀を取出した。
「小藤次が惚れておるのを幸として、お由羅の許へ、奉公に出るということ――もし、この話が成就したなら、これを、父と思って肌身離すな。奥女中は、片輪者の集まりゆえ、いじめることもあろうし、叱ることもあろうが、お家のため、父のために、十分に耐えて――隙があらば、由羅を刺し殺せ。己を突くか、由羅を突くか、二つに一つの短刀じゃ。その外に使うことはならぬ。又――朱に交れば赤くなる、と申すが、泥水に咲いても、清い蓮の花は清く咲く。決して、奥の悪風に染むなよ」
 深雪は、身体をかたくして聞いていた。一家中の者が、それぞれ身を捨ててかかっているのに、自分一人だけは、南玉のおどけた生活の中にいたので、日夜、そのために苦しんでいたが、益満の言葉で、頭が軽くなった。
 だが、同時に、齢端《としは》の行かぬ、世間知らずの娘が、そんな――由羅を刺すというような大任ができるだろうかと、心配になった。
「人間というものは、何んなことがあっても、いつも、明るい心さえもっておったなら、道は、自然に開けてくる。明るい心とは、勇気のあること、苦しさに負けぬこと――よいか」
 と、云った時、南玉が、ことこと戻って来た。深雪は、短刀を押頂いて、懐中した。
「わしは、これから、富士春の許へ、一寸、行って来る」
 益満は、刀を持って、立上りながら、勝手で、七輪への、焚木を、ぷつぷつ折っている南玉へ
「客は、戻ったぞ」
「しめたっ」
「へべれけになって、又、席を抜くなよ」
「腰を抜く」
 南玉は、こういって、障子の破れ穴から、中をのぞいて、益満が出て行きそうなので
「一杯やってから」
 と、徳利を提げて出て来た。

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