からのう。そうそう、彼奴の江戸下りも近づいたから、帳尻を合せておかぬと、何を吼《ほ》え出すかわからん」
「この夏の二千両の内、八百両、貴殿にお渡しした。あの明細が、未だ、届いていん」
「届かぬ筈で、ありゃ、内二百両が、芸妓《げいこ》に化けた」
「又、出来たか」
「出来たと思うたら、逃げられた」
将曹は、脣を尖らした。そして
「その代り、端唄を一つ覚えた。二百両の端唄じゃ。一、二百両也、端唄、と書け。調所のかんかん爺には、判るまい」
あはははは、と、高笑いして、鈴の紐を引いた。遠くで、微かに、鈴が鳴ると、すぐ、女の声で
「召しましたか」
「酒じゃ」
「はい」
「お高の三味線で、その二百両の唄を一つ聞かしてやろう」
平は、丁寧に、頭を下げて
「有難い仕合せ」
と、膝の上で、両肱を張った。衣擦れの音がして、襖が開くと
「お久し振り」
将曹の愛妾、お高が、真紅の襟裏を、濃化粧の胸の上に裏返して、支那渡りの黒繻子《くろじゅす》、甚三紅の総絞りの着物の、裾を引いて入って来た。
「高、二百両の端唄を、今夜は、披露しようと思うが――」
お高は、練《ねり》沈香の匂を立てて、坐りつつ
「三文の、乞食唄?」
「又――」
「でも、深川あたりの流し乞食の――」
「平、文句がよい――巽《たつみ》に見えたあの白雲は、雪か、煙か、オロシャ船、紅毛人のいうことにゃ、日本娘に乗りかけて――」
お高が、口三味線で、近頃流行の猥歌を唄い出した。平は、神妙に聞いていたが
(敵党には人物が多い。こんなことでは)
と、俯向いて、暗い心を、じっと、両腕で抱いていた。
匕首に描く
南玉のところは上り口の間と、その次の六畳と、それったけの住居であった。ただ幾鉢かの盆栽と、神棚と――それから、深雪が、明るく、光っていた。益満が
「退屈なら深雪、富士春のところへでも行くか」
「戯談《じょうだん》を――碌《ろく》なことを教えませんよ。富士春は――」
「その代り、お前のように、孔明|字《あざな》は玄徳が、蛙《かわず》切りの名槍を持って、清正と一騎討ちをしたりはせん――」
「だって、あん師匠あ、辻便所じゃあ、ごわせんか。そんなところへお嬢さんが――」
「小父さん、辻便所って、何?」
「そうれ御覧なさい――だから、云わないこっちゃねえ。齢頃が、齢頃なんだから、こういうことは、すぐ感づきまさあ――辻便所っ
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