御側小姓を一人、引入れて――」
二人は、じっと眼を合せた。八郎太にとって、益満の底知れぬ、そして、大胆な計が、少し薄気味悪かったし、益満は、一本気なこの老人に、ここまで話していいか、悪いか――八郎太の様子をうかがった。
「まあ、雨がひどくなったのに、小太郎は」
七瀬が、独り言のようにいった。
雛人形を、膝の上で、髪を撫でたり、襟をいじったりしていた深雪が、七瀬の声に、周章てて
「お迎えに行って参じましょうか」
人形を、箱の中へ入れて、じっと、眺めていた。益満が
「四国町の、湯屋横町に、常磐津の師匠がいる。そこからこの町、心当りを聞けば、判るであろう」
「はい」
深雪は、人形に、小さい声で
「これで、お別れ致します。他所《よそ》の可愛いお嬢さんに、たんと可愛がってもらいなされ。さよなら」
両手を、人形箱の前へついて、御叩頭した。薄い涙が眼瞼に浮いていた。
「行って参じます。お母様、妾の戻らぬうちに道具屋を呼んでおいて下さいませ」
襖越しに、こう云って
「ああ」
と、七瀬の気のない返事を聞くと、もう一度、人形を取り出して、頼ずりをした。一尺余りの古代雛は、澄んだ眼を、うるましているようであった。深雪は、雛の頭を撫でながら、もう一度自分の頬を頬へくっつけていたが、
「手柄を立てて、元の身分になるまで、辛抱して下されや」
と、雛の耳に囁いた。そして、撫でて乱れた髪を、自分の櫛で解いて、そっと、箱へ納めた。
「もう、売らねえ」
「そういわずに、三十両で」
「手前、根性が、腐ってるから厭だ。おれが、一分や二分もらって、主家の品を安く売る男と思ってるのか」
又蔵が、古着屋に怒っていた。深雪は、傘をさして、門口を出た。表門から、往来へ出ると、雨合羽、饅頭笠の人々が、急ぎ足に行き通っていた。
四国町の自身番の、粗末な、黒い小屋の前に、人が集まって、何か覗き込んでいたが、深雪は、人から、顔を見られるのが厭なので、傘を傾けて通った。
大きい達磨を書いた油障子の立ててある髪結床の前に、薬湯と、横板の看板のかかった湯屋があった。その横町の泥溝沿いに入って行くと、軒下に、小さい紅提灯がつるしてあって、中を覗くと、一坪程の土間に、大提灯が、幅をしめていた。
「あの――」
男が、大勢坐っていたので、どきっとしながら
「仙波と申します者が、お宅に――」
男達が、ざわめい
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