と、思った。
 重い空から、小雨が降りかけてきた。往来の人々は、小太郎に、気もかけず、急ぎ足に、小走りに――すぐ、ちらちら、傘をさす人さえ見えてきた。
 小太郎は、歩いているのか、走っているのか、わからなかった。頭の底に、重い怒りが、沈んで燃えていた。血管の中の血までが、怒っていた。その時
[#天から3字下げ]可愛や、あの子は、浪人かあ
 大きい声であった。浪人と、いう言葉が、その怒っている頭を、針のように突き刺した。小太郎が振向いて、声のした家を、睨むと
[#天から3字下げ]不憫や、明日から、野伏《のぶせ》りかあ
 二人の職人が、家の中の板の間へ坐って、雨の降ってくる往来を見ながら、小太郎の振向いた顔へ、にやっと笑った。
 独り言だろう、と、思っていたのが、自分への当てつけらしいので
「何?」
 と、小声で、叫んで、立止まった。職人が、それに応じて
「何んでえ」
 職人のからかいとしては、余りに乱暴な態度であった。小太郎は、一足踏み出したが、すぐ
(たわけた――)
 と、思い直して、歩もうとすると
「馬鹿野郎っ、素浪人の、痩浪人、口惜しかったら出て来いっ」
 二人の職人は、腕捲りをして入口まで出て来た。小太郎は、怒りの中から、二人の不審な態度に、疑いを抱いて
(此奴ら、何処の、誰か――)
 店をじっと見ると、顔の色が変った。
(小藤次の家だ)
 手が、脚が、顫えてきた。
(この職人づれまでに、もう、浪人になったことが判っている以上、小藤次の指金――それは、お由羅の指金――)
 そう思うと、小藤次が何っかの蔭から、冷笑しているように感じた。こういう侮辱を受けて、そのまま、通りすぎることは、出来なかった。小太郎は、脇差を押えて、小走りに、その家の軒下に走りよった。職人が
「やあい」
 と、叫んで、一二間、板の間を逃げ込んだ。小太郎が、入口に立って
「出ろっ」
 と、叫ぶと、別の声で
「出てやろう。へへ、お主ゃあ、俺を見忘れたか。手首を、折られの与三郎だあ」
 口で、おどけながら、凄い目をして、両手を懐に、木屑、材木の積んであるところから立上ったのは、掏摸の庄吉であった。
「うぬは、おれの仕事を叩っき折りゃがったが、うぬも、明日から日干しの蛙だ。はいつくばって、ぎゃあと鳴け。頭から、小便ぐれえ引っかけてやらあ」

「何っ」
「何は、難波の船饅頭」
 庄吉は、ぺろり
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