「道程《みちのり》は、ざっと三百八十里、女の足で二月はかかろうか」
「まあ、三百八十里?」
綱手も、深雪も、安達ヶ原の鬼の話や、胡麻の蠅のことや、悪い雲助のことや、果のない野原、知らぬ道の夜、険しい山などを、いろいろと、心細く、悲しく、想像した。
「母と二人で行けるか?」
「ええ、参ります。そして、妹は?」
「深雪には、深雪の役がある」
「何んな役? お父様」
七瀬が、襖を開けた。召使が、膝を揃えて平伏した。
「お暇乞に」
七瀬が、そういって、中へ入ると、小者の又蔵が
「いいえ、お暇乞でござりませぬ。ただ今、この御手当を頂きましたが、これは、御返し申します」
又蔵は、金包の紙を、敷居の中へ押しやった。
「六年と申せば、短いようで長い――お嬢様が、十二三から、こんなに御成長遊ばしますまで、ええ、その長い間、何うか、よいところへ御縁のきまるを見てと、それを楽しみに――何も、今更になって、手当だの、暇だのと、それは一期、半期の奉公人のことで、手前は、憚りながら、坊ちゃんに、剣術を教えて頂きますのも、こんな時に、又蔵、こうこうこういう訳だが、どう思う、と、旦那様、一言ぐらい仰しゃって下さっても――」
又蔵の涙声が、だんだん顫えて来た。
「い、いきなり、手当をやるから、出て行けって――」
「又蔵、よくわかった。忝ない。然し、明日から雇人を置く身分ではなくなるのじゃ」
「さあ、旦那、そこで――手前は、や、雇人じゃござんせん。何故、主従は三世の、家来にして下さいません。死ねと仰しゃれば死にます。出て行けと仰しゃれば――そいつだけは、御勘弁を――」
「うめえことを、云やがったのう。古人って奴は」
富士春の坐っている長火鉢の、前と、横にいる若衆の中の一人が、小藤次の家にいる源公の顔を見て、大声を出した。
「何が?――途方もねえ吠え方をして、何を感ずりゃあがった」
「そら、千字文の初めに、天地玄黄、とあらあな。源公」
「何を云やあがる、そりゃ、論語の初めだあな」
「糞くらえ、論語の初まりは山高きが故に尊からずだあ」
「無学文盲は困るて。それは、大学、喜句《きく》の章だ」
「喜句の章じゃあねえ、団子の性だ。団子の性なら転げて来い、師匠の性なら、金持って来い」
「おやっ、もう一度唄って御覧な」
富士春は、口で笑って、眼で睨んだ。一人が
「東西東西、それで、天地玄黄が、何う
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