郷」
「大久保。今頃まで、何していた」
「待っていた。無事だったな」
 大久保の声は、微かに、明るく、顫えていた。
「引出物まで頂戴した」
 と、武助は、脇差を、かざしてみせた。

 黒塗りの床柱へ凭れかかって、家老の、碇山将曹《いかりやましょうそう》が
「何んと――京で辻君、大阪で惣嫁《そうか》、江戸で夜鷹と、夕化粧――かの。それから?」
 金砂子の襖の前で、腕組をして、微笑しているのは、斉興の側役伊集院伊織である。その前に、膝を正して、小声で、流行唄を唄っているのは、岡田小藤次であった。
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意気は本所、仇は両国
うかりうかりと、ひやかせば
ここは名高き、御蔵前
一足、渡しに、のりおくれ
夜鷹の舟と、気がつかず
危さ、恐さ、気味悪さ
[#ここで字下げ終わり]
 小藤次は、眼を閉じ、脣を曲げて、一くさり唄い終ると
「ざっと、こんなもので」
 扇を抜いて、忙がしく、風を入れた。
「世間の諸式が悪いというに、唄だけはよく流行るのう」
 将曹が、柱から、身体を起して
「ツンテレ、ツンテレ――か、のう。ツンテレ、ツンテレ、京でえ、辻君――」
「トン、シャン」
 小藤次が、扇で、膝を叩いた。
「申し上げます」
 廊下から、声がした。
「大阪で、惣嫁」
「テレ、ツテツテ、ツテテンシャン」
「申し上げます」
 将曹が、扇で、ぽんと膝を叩いて
「えへん――江戸で、夜!」
「申し上げます」
 伊集院が、立って行って
「何んじゃ」
「名越左源太、仙波八郎太殿御両人、内密の用にて――」
「待て」
「テレトン、テレトン」
「御家老」
 将曹は、細目を開いて
「夕化粧、ツンシャン――何んじゃな」
「名越と、仙波とが、何か話があって、お目にかかりたいと――」
 将曹は、うなずいて、また、眼を、閉じた。小藤次が
「意気は、本所」
「意気は、本所」
「テレ、トチトチ、ツンシャン」
 障子が、静かに開くと、敷居から一尺程の中へ、二人が坐った。取次が、障子をしめると、二人は、御辞儀をした。
「仇は、両国――もっと、近う」
「はっ」
「ただ今、唄の稽古じゃ」
 小藤次が、口三味線のまま一寸振向いて、二人を見て、すぐ
「うかりうかりと――」
「うかり――」
 仙波が
「ちと、内談を――」
「ひやかせば――内談か、聞こう」
「申しかねまするが、御人払いを――」
「人払い?」
 将曹の顔
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