も飲まないで、すぐ登って行った。話声だけ、暫くの間聞えていたが、玄白斎が顔をあげて
「いいや――和田」
と、大きい声をした。
「あの無分別な、若い者では、覚束ない。牧は斬れぬ。止めるがよい」
「止めに参りましょう」
仁十郎が立上った。
「待て――何んとしたものか、高木、わしには判断がつかなくなって来たが――ここで、朋党の争いを起しては、斉興公のお耳に入った時、斉彬公方の人々は、極刑に逢おう――矢張り止めなくてはならぬ。高木、仁十と二人で追っかけて、引止めて参れ。呪法での調伏は、呪法にて破りうる。玄白斎の命のある限り、そう、牧の自由にはさせぬ」
仁十郎と、市助とは、頷くと同時に立上った。
「爺、草鞋の新しいのを――」
二人は、刀を提げて上り口へ出た。そして、草鞋の紐を通している時、二三人の馬上の人々が、二人の眼を掠《かす》めて、鉄蹄の響きを残して、山の上へ影の如く過ぎ去った。
右手は、雑草と、熊笹の茂りが、下の谷川までつづいていた。左手は、杉の若木が、幾重にも山をなして、聳えていた。
斉彬に目をかけられている家中の軽輩、下級武士の中の過激な青年達が、牧を襲撃するという噂が、いつの間にか相当に拡がっていた。後方を振向いた一人が
「あれは?」
振向くと、山角の曲りに、白い鉢巻をした人々が、走り出て来ていた。
「山内、斎木、安堂寺、貴島」
と、馬上から、飽津が叫んだ。
四人が、振向いて
「何?」
と、いうよりも先に、彼等の眼は、その近づいて来る人々を見た。山内は、大きい舌を出して、脣をなめながら
「来よった」
と、笑いながら、袖の中から、襷を出した。
「駕、急げっ、先へ行け」
と、二三人が、同じことをいった。駕は小走りに遠ざかった。斎木は、道幅を計って
「山内と、二人でよろしい」
追手は、木の間へ一寸隠れて、すぐ又現れた。もう間は小半町しかなかった。山内と、斎木が第一列に、少し下って貴島と、北郷が、第三段に安堂寺と、飽津とが、並んだ。
追手の先頭に立っているのは、二十二三の若者で、白地の稽古着に、紺木綿の袴をつけていた。山内が
「牧殿が入用か」
と、怒鳴った。追手は、それに答えないで、四五間まで近寄った。そして
「吾等有志より、牧殿に申し入れたい儀がござる。御面謁できましょうか、それとも、御伝達下さりましょうか」
「無礼な、その鉢巻は、何んじ
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