う。「金色夜叉」「不如帰」時代のもの殊に然りである。それらは、特に「泣かせる」ことで成功した。だが、今では、そんな風の「泣かせ方」ではすでに旧く、人はふり向くまい。将来はやるであろうところの「涙」は、たとえ同じ「涙」にしても、明るく、ほがらかで軽快で、ユーモアに富んだものでなくてはならぬ。そうした「泣かせ方」が、今後、読書階級の翹望《ぎょうぼう》を満す喜びの泉となるだろう。
 最後に、テンポの問題である。現在は、あらゆる意味で速力を要求している。電車より自動車、自動車より飛行機へと、その他科学の発達はテレビジョンの完成へまで急いでいるのだ。人間は科学に逐われて生活のテンポを速めている。それは亦、当然芸術へも影響する。芸術も亦、その内容形式ともにテンポを要求されて来ている。かの片岡鉄兵君の「生ける人形」(勿論、小説それ自身も現在に適した作品ではあるが、殊に)の新築地劇団の手になるレヴューの形式による劇化が素晴らしい人気を呼んだのもテンポと明快さの故であった。序であるが、菊池寛君の「東京行進曲」の映画化が外国映画を凌ぐ人気の中心になっているのも、その明るさ、明るい哀愁のためであると云えるだろう。大衆文芸も今や、テンポを持たねばならない。テンポを速めるといっても、何も無闇に速くすることを意味してはいない。緩急度を得て、しかも全体から見て場面のあきない変化と、軽快な速力で疾駆する爽快さを、読者に与えることである。
 さて、以上述べ来ったように、所謂大衆文芸に於て、現在最も欠乏しているのは、ほがらかさと涙であろう。恋愛と剣戟とそれに今講じたような要素を巧みに織雑《おりま》ぜるならば、現在のままでも大衆物はなお永続性をもっているに違いない。だが、そんな心掛けだけでは、勿論文学的――芸術的作品としては発達すべくもない。が、ただ職業上の、商品価値の点からいうなら、一般うけ[#「一般うけ」に傍点]することは請合いである。
 序に、一層商売的なことをいうなら、例の、所謂プロレタリア文芸の大衆化という問題でも、労働者階級は、表面的にみるならプロレタリアの根本問題、換言するなら一般大衆自身の問題といった本質的な問題を文学に求めようとはせず、教化の程度の低きその他の種々の生活上の事情から、彼らは反って娯楽的な読物を求めているのである。大体読書を自分の教養のために、向上のためにするのだと考えている人もないではない。が、非常に多数の人たちは読書を娯楽と考え勝ちなのである。自分の要求すべきことなぞを知らず、違った世界を見たがったり、自分の生活を慰め、忘れようとしたりせんがため、全然無関係な書物を読もうとする傾向は次第に強くなって来ている現在である。何といっても、探偵小説は何等生活に寄与するものを持っていないに拘らず、非常に一般に要求され、世界的な流行を見ているのである。このことは、注目に値いする事実である。こうした流行に対する注目、そしてそれに適当する骨[#「骨」に傍点]も是非、商売的には心得ておくべきであろう。
 と同時に、こういう無数の人たちの要求を正しい方向に導くためには、プロレタリア派の連中はその素材を非常に甘味《あま》い、オブラアトで包む必要がありはしないか。そんなことをするのは非階級的だとか何とか嗤うべきではない、と自分は考える。
 例えば、百姓一揆なぞを書くことも非常にいいと考える。現在の労働争議の詳細なことなぞはおそらく現代物として書きえない点が少くないだろう。ところが、一揆なぞになると随分詳細なことも書いて差支えないのである。
 由来、日本の検閲は映画にしても、文学にしても、現代物には厳しく、時代物になると非常に緩やかなのである。現代物に翻案しては絶対に駄目な、不許可なものでも、時代物としたら当然平気で通用するのである。
 プロレタリア作家が、今後こうした方面へ眼を付けるなら、よい大衆を読者とし得るし、従って商品価値もできるし、一挙両得だと思う。
 次のような参考書を読破したら、今日プロレタリア作家のみならず、あらゆる作家、大衆文芸作家が開拓し行くべき、又しなければならない無数の題材が、悲惨な、痛快な事実が到る処に転がっているのを見るだろう。
 黒正巌氏の、「百姓一揆の研究」とか、「日本農民史」「日本奴隷史」なぞが参考書として挙げられる。
 大衆文芸作家の開拓すべき豊富な資源の一つは此処にある。
 処で、中途な処で読者諸君に失礼だが、私が一寸断っておきたいことは、この講座も既に半を過ぎ、残る巻数も数少く、多忙のためとは云え筆者の怠慢をお詫びしなくてはならないのであるが、計画通りの分類に依ってダラダラと述べているだけの紙数もなし、私はこの暑いのに諸君を苦しめて尻切蜻蛉にして了うような無責任なものでもない。
 で、大体、肝心|要《かなめ》のことだけを講じ、後は他の諸氏の講義を参考にしていただきたく思うのである。大衆小説といっても小説であるからには小説の書き方に根本変りのあろうはずはない。特に、大衆文芸として必要欠くべからざる点は漏さず、その代りあまり重要でないと思われる点はさっさと飛ばしてテンポを速め、面白く、然も有益に、残る講義を諸君とともに続けたいと考える。御愛読を希望する次第である。では早速続けよう――。
 日本のみならず、外国の大衆文芸に於ても矢張り時代ものが多いのである。少くとも、今までのところでは時代物が勢力を占めているのである。ところが、我国の大衆文芸と異るところは、大抵のものが史実に基礎を置いていることである。「ウィリアム・テル」でも、「ポンペイ最後の日」でも、或は又「|何処へ行く《クオ・ヴァディス》」にしても、凡て然りである。
 且、取材の版図が非常に広汎に亙っていて、古代より最も近代に到る史実を題材としていること、日本の大衆作家のその取材を江戸幕末に限るのと雲泥の差ありと云わねばなるまい。この点は、将来の大衆文芸作家の心得るべき点である。
 外国の大衆文芸には、可成りに空想的な、事件本位な、換言するなら娯楽本位のものもあるが、それらが何れも史実にある程度の基礎をおいているという点から来る、「事実らしさ」という面白さは日本の一般の大衆文芸には発見出来ない強味に違いない。この点から見るに、我国の大衆作家はすべて、事件の面白さ、空想的趣味を、史上の人物に結び付けることの技巧が非常に拙劣なために、この強味――「事実らしさ」――を持つことが不可能なのである。
 それは、一体何に起因するか? といえば、云うまでもなく、歴史的知識の不足より来ていると見るの他はないのである。前節の「歴史小説」ほどの厳密さは敢て強要しないが、少くとももっと史的事実を考証し、研究する必要が充分にあると信じるのである。
 その中でも、最も重要な大衆文芸の要素となっているところの、「剣術」及び、「忍術」のことさえ、本当に調べて書いている大衆文芸作家は、殆んど少いといっていい。
「剣術」の参考書は前節に挙げておいた故に再び述べないが、「忍術」の参考書として、世間に可成り充分に流布されている「正忍記」一冊さえ読んでいないらしい大衆文芸作家が転がっているのには驚くにたえる。そうでなかったら、あんな馬鹿げた忍術は書けない筈なのである。大衆物が剣戟中心でありながら、剣術の知識もなく、人を斬る、又は斬られる者の瞬間の心理さえ書かないでいて、然も将来の大衆文芸を書こうと考えるなどは酔興に等しく、一寸無理な話といわねばなるまい。
 斬り合いの描写の変遷を見るのに、江戸時代の文学の、斬り合いの描写といえば、所謂、
「丁々発止、虚々実々の云々」の流儀に定っていたものであった。
 それが稍《やや》進んで、
「左の肩から袈裟懸けに斬り下げれば、血煙立てて打倒れた」
 といった文章にまで変化して来た。以下、二つ三つ例をとって見よう。
 諸君は、それらに於ける立廻りの描写を、諸君自らの眼で、私が述べる種々の点を参考にして批判研究していただきたく思う――。

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 その時、鏘然《そうぜん》と太刀音がした。
 一人の武士が頭上を狙い、もう一人の武士が胴を眼がけ、同時に葉之助へ切り込んだのを、一髪の間に身を翻《ひるが》えし、一人を例の袈裟掛で斃《たお》し、一人の太刀を受け止めたのであった。
 受けた時には切っていた。
 他流で謂う所の「燕返し」一刀流で云う時は、「金翅鳥《こんじちょう》王剣座」――そいつで切って棄てたのであった。
 金翅鳥片羽九万八千里、海上に出でて龍を食う――その大気魄に則《のっと》って、命名した所の「五点之次第」で更に詳しく述べる時は、敵の刀を宙へ刎《は》ね、自刀セメルの位置を以て、敵の真胴を輪切るのであった。敵を斃すこと三人であった――。

 町人は葉之助を突き飛ばそうとした。が、葉之助は頸首を捉えて、ギューッと地面へ押し付けた。
 突然武士が刀を抜いた。ヒョイと葉之助は後へ退った。刀は町人の首を切った。ヒーッと町人が悲鳴を上げた。
「しまった?」と武士は刀を引いた。
[#ここで字下げ終わり]

 これは、国枝史郎君の「八ヶ嶽の魔神」の中の斬り合いの一節である。
 次の簡単な一行は、大佛次郎君の「鞍馬天狗」からの抜萃である――。

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 近藤勇は虎徹、中原富三郎は助広、刀も刀、斬り手も斬り手、じっと相青眼に構えて睨合った。
[#ここで字下げ終わり]

 同じく、大佛君の「赤穂浪士」の一節――。

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 やがて、三人は、芝生の中央へ進み出た。
 目と目と、合う。その刹那に、霧のつめたく沈んだ宙に、三条の刀身が静に抜き放たれた。
 肌にしみるような静けさが、流れの音をのせてのぼって来た。互いに付け入る隙をうかがう敏捷な生き物のように、切先は暗い宙にはいまわって、かすかにゆれている。ひたひたと、こまかい波のように双方からのぼって来るかと思うと、合って、凝と無気味な目を据えて睨み合って静止する。
 突然その一つがさっとあお白く閃いて、一文字にぐっとおどり入る。その時初めて、刃のかみ合う音が起って、燃えた鉄のにおいがやみに散った。どうとばかり地響き打って相沢が地にたおれた。あせって、岩瀬が斬り込んだ。すぐ目の前に、肉薄していた敵手の顔が、白いのどをのぞかせて反りかえったのが見えた。その刹那に、岩瀬は、空をきって、はずみで不覚に泳ぎながら、右の腕に火のような一撃を受けている。立直った時自分の手がもはや刀をなくしているのを知った。
[#ここで字下げ終わり]

 では、人口に膾炙《かいしゃ》している中里介山君の「大菩薩峠」の内から引例して見よう――。

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 竜之助は例の一流、青眼音なしの構えです。その面は白く沈み切っているから、心の中の動静は更にわからず、呼吸の具合は常の通りで木刀の先が浮いて見えます。
 竜之助に此の構をとられると、文之丞は忌《いや》でも相青眼。これは肉づきのよい面にポッと紅を潮《さ》して澄み渡った眼に竜之助の白く光る眠を真向うに見合せて、これも甲源一刀流名うての人、相立って両人の間にさほどの相違が認められません。
  ……………………
 その中に少しずつ文之丞の呼吸が荒くなります。竜之助の色が蒼白さを増します。両の小鬢のあたりは汗がポトポトと落ちます。今こそ別けの合図をと思う矢先に、今まで静かであった文之丞の木刀の先が鶺鴒《せきれい》の尾のように動き出して来ました。業をするつもりであろうと、一心斎は咽喉まで出た分けの合図を控えて、竜之助の眼の色を見ると、この時怖るべき険しさに変って居ました。文之丞はと見ると、これも人を殺し兼ねまじき険しさに変って居るので、一心斎は急いで列席の逸見利恭の方を見返ります。
  ……………
 一心斎は気が気でない、彼が老巧な眼識を以て見れば、これは尋常の立合を通り越して、最早果し合の域に達して居ります、社殿の前の大杉が二つに裂けて両人の間に落つるか、行司役が身を以て分け入るかしなければ、この濛々と立ち騰《のぼ》った殺気というものを消せるわけのもの
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