ではない、今や毫厘の猶予も為し難いと見たから
「分け!」
これは一心斎の独断で、彼は此の勝負の危険を救うべく鉄扇を両刀の間に突き出したが、其れが遅かったか、彼が早かったか
「突き」
文之丞から出た諸手突きは実に大胆にして猛烈を極めたものでした。五百余人の剣士が一斉にヒヤヒヤとした時、意外にも文之丞の身はクルクルと廻って投げられたように甲源一刀流の席に飛び込んで逸見利恭の前に突伏してしまいました。
机竜之助は木刀を提げたまま広場の真中に突立って居ます。
井上真改の一刀は鍔元から折れて彼方に飛び、水もたまらず島田の一刀を肩先に受けて凄まじき絶叫をあとに残して雪に斃れる。それと間髪を容れず後から廻った岡田弥市の拝み討。島田虎之助は加藤主税を斬ったる刀を其の儘身を沈めて斜横に後ろへ引いて颯《さっ》と払う理屈も議論もない、人間を腹部から上下に分けた胴切りです。
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尚、最後に、大衆文芸ではない、変った例を、文壇の鬼才、横光利一君の作品、「名月」から取ろう。「名月」はそれ全体が既に石川五右衛門の狂った剣そのもののような姿を心理を、描いた好短篇である。
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小兵衛の脇腹に師の鞘がぐッと当った。小兵衛は腹を圧えたまま、顔を顰《しか》めて立停った。が、漸く声だけは立てずに済ませると、小声で云った。
「先生、手ひどいことだけは、もうどうぞ」
「よしよし、だが、こちらに隙を造らそうとすると、そちらに隙が出来て来る。良いか」
「はい」
「俺はこれでも、まだお前の心はすっかり見えるわ。だが、小兵衛。覚悟は良いのう」
「何の覚悟でございます」
「覚悟は覚悟だ。俺は今に乱心するにちがいない。すればお前の命も危いぞ」
「先生」と云った小兵衛の声は慄《ふる》えて来た。
「お前は逃げようとしているな。逃げればお前の足は動かぬぞ」
「先生」
「ははア。またお前は俺を殺そうとして来たな」
「先生。そんなことは、もう仰言《おっしゃ》らずにいて下さい」
「よしよし。さあ来い」
また二人は暫く黙って歩いていった。が、小兵衛は自分の心が手にとるように師の背中に映っているのだと思うと、自分の心の一上一下の進退が、まるで人の心のように思えて来た。
「先生」
「何だ」
「私はもう恐しくて歩けなくなりました」
「馬鹿な奴だ。お前は俺を殺せば良いのだ。ただ殺せ。遠慮は入らぬ。俺はいずれ、近々に太閤の奴にしてやられるにちがいないのだ」
「先生」
「俺は太閤に殺される位なら、今お前に殺される方が満足だ。良いか。やるのだぞ」
「先生、私をここで、お殺しなすって下さいませ」
「うむ、お前が俺を殺さぬなら、俺は今にお前を殺してやる」
すると、小兵衛の顔は、月の中で俄に大胆不敵な相貌に変って来た。彼は師の後姿を見詰めながら、その背中に斬りつける機会を今か今かと狙い出した。と、二人は寝静った伏見の町へいつの間にか這入《はい》っていた。
小兵衛は急に気が抜けると、額の汗が口中へ流れて来た。瞬間、前を歩く五右衛門の後姿も、それと一緒にホッと吐息をついた。と見る間に、再び、師はひらりひらりと体を左右にかわし出した。「そら、乱心だ」小兵衛は心を取り戻そうとしたときに、不意にひやりと寒けがした。すると、彼の片腕は胴を放れて路の上に落ちていた。
「やられた」と思った彼は、一散に横へ飛び退くと、人形師の家の雨戸を蹴って庭の中へ馳《か》け込んだ。が、続いて飛鳥のように馳けて来た五右衛門の太刀風が、小兵衛の耳を斬りつけた。と、彼は庭に並んだ人形の群れの中で、風のように暴れている五右衡門の姿をちらりと見た。
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我田引水のように聞えるかもしれないが、敢て手前味噌を云えば、拙作「由比根元大殺記」(目下「週刊朝日」連載中)の中の立廻りは、今までの大衆文芸のありふれた立廻りとは稍趣きを異にして、内面的にも外形的にも可成り「剣術」の正道に当嵌った描写を注意してやっている積りであるから、もし読者諸君に興味があるなら、読んで欲しいと思うということを附加しておく。
文壇作家には、「調べた文学」を軽蔑する傾向があるが、大衆文芸に於て、調べた智識を軽蔑しては、大衆文芸の将来の発展は殆んど約束されないと考える。少くとも大衆文芸に於ては、「出来る限り調べ、然も出来るかぎり調べたことを表面に表わさないようにして、事実らしく描出すること」これが第一に肝要である。この標準に依って、先の数個の例を比較研究されたい。
否、大衆文芸のみならず、あらゆる文芸は以後、益々綜合的となっていくであろう。ただ単に自分の生活を掘り下げて書くことばかりではなく、以外の世界を見た智識をもって書かなければ、小説は書けなくなる時が来るだろう。人間の個人的な精神生活は十九世紀の終りから二十世紀の初めで発達が止って了ったかの感がある。それ以後の人間生活は科学の発達による外面生活に引摺られていく有様である。我々の個人的な欲望、要求が如何に社会的、科学的外面生活に圧迫され、影響され来っているかは、諸君が一度諸君自身の生活を振りかえれば一目瞭然たるものがあるであろう。
そうした意味で、個人的な、作家的な構想力のみにたよらず、広い世間から、読書から、史実から得た科学的智識の構想をかりて文学を創造することがなければ、将来の文芸は到底十九世紀末の文芸の塁を抜くこと、甚だ困難だろうと思われる。
外国の現大衆小説に例を取って、考察を進めよう。例えば――
コナン・ドイルの幾つかの探偵小説、幻奇小説「|失われた世界《ロスト・ワールド》」、「霧の国」なぞはドイルの深い科学的造詣からなった幻奇小説であり、有名なH・G・ウェルズが、小説家たる根底に、如何に科学者としての智識を誇っているかは、「タイム・マシーン」、「モリアン博士の島」、「月へ行った最初の人」のごときものから、「盲者の国」、「眠れるものの醒める時」、「見えざる王、神」のごとき社会批判の小説に到るまでの彼の作品が雄弁に彼の多智多能なるを物語っている。殊に、かの「文化史大系」に到っては、彼の広汎なる科学的智識をもってして甫《はじ》めて完成され得たものと云うべきである。おそらくは、今後大衆文芸の第一線に立つ人ではあるまいか。その他、ライダー・ハガード、ラインハルト、ウォルチイなぞの作品は、日本の大衆文芸作家の学ぶべき多くの点を備えているように考えられる。
ハガードはすでに我国でも充分流布されているが、他の一人ウォルチイには、「紅※[#「くさかんむり/繁」の「毎」に代えて「誨のつくり」、第3水準1−91−43]※[#「くさかんむり/婁」、第3水準1−91−21]《べにはこべ》叢書」があり、ラインハルトには、「七つの星の街」、「螺旋《らせん》形の階段」なぞがある。これらの人たちは、種々な意味で最近の科学的智識を吸収しており、殊にハガードの如きは、空想的にしてなお且学術的智識の匂い高き、我が大衆文芸作家のもって参考とすべき作家である。
現在、日本の探偵作家を顧みても、純粋の作家である以外に、医者、科学者が比較的多数含まれているのは、矢張りその方面の智識なくしては探偵小説が書き得ないからである。
自分自身の生活のみをただ視ている生活だけでは、勿論経験は必要であるがそれ以上の、それを科学的に基礎づける智識が備わっていなくては、いい作品は生れない。
ジャック・ロンドンの諸作品、「シーウルフ」、「野性の叫び」、「ホワイト・ファング」、「バーニング・デイ・ライト」なぞも、その豊富な経験に充分な学術的研究の結果が加味されているのを見てもわかるだろう。
最後に、日本の作家のスケールの小さいことは恥じなければならない現象である。或る作家は「心境小説」に閉じこもり、或る作家は、イージーゴーイングな、それ故低級な「大衆文芸」を書くことで満足している。
外国の作家は、決してそうでない。バアナアド・ショウにしても、ウェルズにしても、ドイルにしても、皆、多種多様な小説に筆を染めている。そこで、彼らのスケールはもっとずっと壮大である。
三上於莵吉が一日に幾枚かき飛ばすとか、中里介山の「大菩薩峠」が驚くべき大作とか、そんな気の小さいことでは駄目だと思う。日本の文壇作家は、どんどんもっと雄大なスケールの通俗小説を書いてもいいと思う。
要は、小乗に安んじないで、勉強して小説のための予備智識を豊富に蓄えることだ。現状では日本の文壇も心細いこと甚だしい。
そこで、ではあらゆる種類の文芸を――ここでは特に大衆文芸に限ってもいい――時代小説も、探偵小説も、恋愛小説も少年少女小説も、私が序講で分類したあらゆる種類のものを一括して、将来大衆文芸は――文芸は如何なる方向へ進むだろうか、を考えるとき、その方向を予言せよと云うなら、すべてを代表して「科学的傾向」へ、と私は断乎《だんこ》として答えよう。文芸は、将来科学的文芸の方向へ進むより他に途はないのである。
このように考察して来るとき、次の講義で先ず何を講ずべきだろうかの問題も自ら解釈される。
すなわち、私は次回に於て先ず、「科学小説」を講じようと思う。然る後に、他の種類のあらゆるものを一括して講ずるのが正しい順序であろうと思うから――。
第六章 科学小説
前章の結論に於て、私は諸君とともに次のことを見て来た。未来は科学のものだ。あらゆる小説は、将来益々科学的傾向をおびて来るだろうし、又必然的にそうならなくてはならないのであろう、と。では、「科学小説」とは?
だが、現在我国には未だ、「科学小説」と呼べるべきものは存在していない。現在、我国の大衆文芸で最も圧倒的な顕著な効果を収めつつあるものは、諸君も眼前に見られる通り、「探偵小説」の流行である。これは、ただに我国のみの現象ではない。既に「科学小説」が立派に存在し、読者大衆を喜ばしつつある西洋諸国に於ても、我国同様、「探偵小説」は全盛を極めているのである。要するに、「探偵小説」の著しい流行は、近来、大衆文芸界に於ける世界的な現象なのである。
然らば、この輓近《ばんきん》、「探偵小説」流行の現象は、一体何ういう風に解釈すべきなのであろうか。そういう点から問題を考えて見よう。そうして、その最も手近なところから出発して、「科学小説」へ進んでいこうと思う。
読者大衆の「探偵小説」への欲求は、先ず何よりも次のような点から根本的には考えられるのではないだろうか。
即ち、これ迄の文学に於て、人間の感情生活、換言するなら個人生活を描くことは、既に充分に書き尽されて了ったかの感が深い。それらを同じように主題とした文学は、小説は、もうこれ以上新らしく現るべくもなく、又読者の充分な興味を惹くことも出来ないであろう。何故なら、時代は十九世紀から二十世紀へ進んでも、人間の感情生活は最早本質的には何ら新らしいものを生じなかったからに他ならない。勿論、新らしい意味を含んだ、目新らしい主唱は当今、盛んに行われている。けれども、それらは要するに経済的、社会的、政治的な理論を多分に含んでいるのに過ぎないのであって、経済的、社会的、或は政治的見地から観察するときは、重大な意味をもって来るには違いなかろうが、感情的には本質的に昔と変った、全く新らしい何ものをも有しないと云っていいだろう。
だが、成程、その点では十九世紀の文学に於ける揚合とは可成りに異ってきている。個人の生活に人間の社会生活を従属させていた十九世紀の文学、即ち、個人生活を主題としそれを説明し、解釈しようと試みた十九世紀の文学――小説と、個人生活が社会的集団生活に歪められ、そして個人生活よりも、より社会的生活を重要視している二十世紀、現在の文学――小説とは、当然異っていなければならない。勿論、十九世紀の文学にもそうした傾向は現れはじめていた。そして、由来人間の生活革命と云うことは漸次的に行われるものであって、政治変革といったもののように決して突変的ではあり得ない以上、前述のことは当然であるが、前世紀に於てはそういう傾
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