来る訳ではある。だが、大衆作家が、大衆作家である所以《ゆえん》のものは、その作品があくまでも文壇的ではなく、大衆的、通俗的文芸作品でなければならない、と云うことは何等変りないのである。
 我国の大衆文芸は、その範囲未だ極めて狭く、鶴嘴《つるはし》の触れてない未採掘の分野は、尚尊い金鉱を蔵してその儘、我々の足もとに広く、深く横たわっていることを知らなければならないのである。そして、それ等を開拓して行くことこそ大衆文芸作家の任務であり、大衆文芸を益々盛んならしめる所以であろうと思う。
 で、私はこの章の最後に当って、大衆文芸の分類方法に関して、若干の意見を述べようと考える。そのことに依って、諸君に大衆文芸の分野でありながら、日本の大衆作家達が、全く手をつけていないような、然も広大な鉱脈を知らせることが出来るだろうからである。そして又、それ等こそは、大衆文芸を目指す諸君によって是非開拓されなければならない沃土《よくど》なのである。
 で、もし、日本の過去の作品のみを以《もっ》て分類するなら、第一に「軍記物」源平盛衰記とか、難波戦記とか――現在の例をとると、日米戦争未来記とか、秩父宮勢津子妃の愛読書だという「進軍」とかは、立派に大衆文芸の一分野を占めていいであろう。
 第二に「白浪物」又は「政談物」とでも呼ぶべき「鼠小僧」とか、大岡越前守の関係物とか。第三には「侠客物」第四に「仇討物」第五に「お家騒動」第六に「怪談物」第七に「伝奇物」第八に「教訓物」第九に「人情本」即ち、恋愛小説の類、第十に「戯作物」これらは総て、大衆文芸の中へ含まれて差支え無い物である。
 以上の分類法は、私が江戸時代の通俗小説を分類するの方法を適用して見たのであるが、之を、現在の言葉により現在の分類法を用いるなら、第一「探偵小説」第二「冒険小説」第三「少年、少女小説」第四「宣伝小説」この中には、政治、宗教、思想等、作によって目的を宣伝、流布せんとする物の一切が含まれてくるのである。第五に「歴史小説」第六に「伝奇小説」この両者の相違は後章に詳説する。
 第七に「スポーツ小説」この中へ、海洋又は山岳文芸を含めてもいい。第八に「立志小説」又は、修養、教訓小説と云っていいもの。第九に「花柳小説」第十に「滑稽、諷刺小説」第十一に「恋愛小説」第十二に「実譚小説」第十三に「怪異小説」第十四に「戦争小説」第十五に「英雄小説」第十六に「科学小説」と。こんな風に分類して行くなら、「競馬小説」「カフエ小説」「シネマ小説」……と何ういう風にでも分類ができる訳である。
 然し、もしこれを内容的に見るならば、ただ二つに帰してくる。その一つは、興味中心、娯楽的、即ち事件の起伏波瀾、変化の面白さのみによって、読ませようとする物であり、他の一つは、勿論、そういう点も十分に考慮されて居るが、純文芸の目的たる、人間及び人生、社会等の探究、解釈をも含めている物である。
 そこで、私は、次のように分類するのがいいのではないかと思う。
 一、時代物
 二、少年物
 三、科学物
 四、愛欲小説
 五、怪奇物(広い意味の探偵小説)
 六、目的、又は宣伝小説
 七、ユーモア小説

  一、時代物

 時代物は、これを伝奇小説と歴史小説に分類する。
 伝奇物とは、髷物であり、所謂大衆小説と称せられている処のものである。主として事件の葛藤、波瀾を題材としたものであって、従って興味中心的であり、多少は歴史的虚偽を交ぜても構わない種類のものである。
 現代の日本の大衆作家の作品の殆んど凡てはこれであると断言することが出来る。
 歴史小説と称ばるるものは、歴史的な史実の考証的研究の充分にされたものであって、歴史的事実は毫《ごう》も曲げずして、新らしき解釈を下した作品である。シェンキヰッチの「神々の死」等の諸作、フローベルの「サランボ」等の如きが例として挙げられ得るであろう。

  二、少年物

 主として想像力に基く一切の作品、大人の持っている分子の一切をも含めたものを、凡てこの題下に呼ぶのであって、怪奇物語、冒険、探険小説等々を包含するのである。例えば、「竹取物語」、「西遊記」、「アラビアン・ナイト」、スチブンソンの「宝島」、アミーチスの「クオレ」、マロオの「家なき少女」、トウエンの「ハックルベリー・フィンの冒険」「トム・ソーヤの冒険」、「ロビンソン・クルーソー」、「不思議の国巡廻記」等。
 この種の創作には、殆んど我が国では手がつけられて居ないといってもいい。よき少年文学は、大人の文学作品の書ける上に、より充分な「空想力」が無ければ書くことは困難である。これを、只単に、年少の人の読物なりとして軽蔑し去る理由は少しも無いのである。それだけの理論さえ理解出来ずして、一端これを棄ててしまった文壇小説が益々|狭隘《きょうあい》な途に踏み込んでしまったのは当然と思われる。
 現在、少年、少女小説は、一の転換期にあるように観察される。嘗て、少年を喜ばした処の、空想力に依った科学的探険談は、現在の加速度的なテンポで進歩して止む処を知らない科学の知識によって書き改められるべき時に到達しているのである。この転換期に於ける少年文学は、科学と空想とが如何に巧みに結合するかによって解決されると思う。旧き一切のものは、新らしきものの材料となり得るであろう。もし、現在日本の文学界に最も必要な小説を求むるならば、私は第一に少年文学を挙げるに躊躇しないであろう。
 少女小説に到っても、同様である。現在の少女小説作家が、同性愛と古きセンチメンタリズム以外の何物も描き得ない時に、大人の愛欲生活の世界は、思想的にも経済的にも急速に変化しつつあるのである。かかる重大な危機に臨んで、果して現在の少女小説作家は如何に考えているのか、私は大方の少女小説作家諸君に問いたい。

  三、科学小説

 科学小説と称ばれる種類の作品例は、日本には皆無である。外国に例を取るなら、ハッガードの探険談。ウェルズの諸作品。近頃では、テア・フォン・ハルボウ女史のメトロポリスなぞが、そうである。科学の進歩発展した今日、日本にも当然創作されなければならないものである。私は現代に於ける進歩とは、科学の発展以外の何物でもあり得ない、と断言して過言ではあるまいと思う。精神文明、芸術的諸作品、と云ったものは頽廃しつつある。少くとも科学と比較する時は、退歩していると云い得るだろう。斯《かか》る時に当って、日本に未だ曾て科学小説の現れなかったというのは、日本人が如何に科学に対して無理解であったかを示すものである。と同時に、今後に於て科学小説の領域に全き発達の余地が残されていることをも指し示すものである。
 科学とは、単に機械に対する驚異というような狭い意味の言葉では、決してない。私の意見に依れば、人間の生活は、自然的倫理作用より科学的倫理作用に支配されるようになって来た傾向がある。と云うのは、科学は、必ずしも人間の要求する幸福を実現する方向にばかり進んでるのではない。人間は、自然的な人格作用として、人口の増殖と食物の増加を望む。この自然的倫理作用の命令に従って、科学が支配されるならば、一年中に米が三度取れるようになっているべきだ。然るに、科学の発見があるごとに、一つの傾向だけが雪だるまのように広がり、大きくなるのである。例えばテレビジョンの発明まで、享楽的方面にすばらしい発達を見せている。処が、享楽的科学の発達は、人口増殖とか食物問題とかとは、概して矛盾した結果を齎《もたら》す。つまり、人間的生活は人間の自然的欲望の倫理作用より科学的なる倫理作用に支配さるるに到るのである。この科学文明の歪んだ道を、正当に引き戻すためだけでも、科学小説は、今や立派な使命を持っていると、云えるのである。

  四、愛欲小説

 現在までの家庭小説は主として恋愛小説であった。殆んど凡ての文学は恋愛事件を含んでいるから、一切の文学は恋愛小説であるとも云える訳だが、特に愛欲のことを取扱った小説を大衆文芸の一部門として分けてもいいと思う。
 ただ、今後の作者が特に、恋愛を取扱う場合に注意すべきは、恋愛を科学的に考察することである。精神的恋愛、肉体的恋愛、という古くよりの二つの区別を信奉するものは、新らしき恋愛小説は書き得ないだろう。私をして云わしむるなら、恋愛は八種類に分類し得ると思う。参考のために、以下少しく、恋愛について述べよう。
 一、思春期的恋愛。この時代の恋愛は、ただ無闇な、盲目的な情熱にうかされるのであって、無批判的で、相手を選択する余裕がない。街角で出あった最初の異性が恋人である。恋愛は、本質的にかかるものではあるが、特にこの思春期に於ける恋愛は、情熱的で、無批判である。
 二、母性的恋愛。無自覚な、大多数の、日本の女性の恋愛は悉く、この種類に属するのであって、恋愛はそれ自身として独立していないのである。子供を欲しい事が、無意識的に動いて、異性を欲しがる処の恋愛である。かかる恋愛は、子供さえ出来れば、あらゆることに忍従するものである。
 三、性欲的恋愛。ある人々は恋愛で無いと云うかも知れないが、恋愛的な気持の一抹もないようなことは絶対に無いと云っていいから、恋愛の中に入れていいと思う。
 四、英雄崇拝的恋愛。必ずしも、その人を独占しようとするのではなくして、その人に、好意をもたれんことを望む。活動俳優に対するファンの気持。著名人物に交際を求める男女の恋愛心理といったものが、これに属する。
 五、社交的恋愛。殆んど之に同じもので、頗《すこぶ》る遊戯的な恋愛である。音楽会へ行く時の、競馬を見る時の、舞踏会へ行く時の相手といった、軽い携帯用の、ステッキのような恋愛である。
 六、同志的恋愛。コロンタイ女史の小説に表れるような最も新らしい型の恋愛であって、何よりも第一に、政治的に思想的に一致した意見によって同志として結ばれていなければならない。これは、労農ロシアの若きゼネレーションの中から必然的に生れたもので、近頃日本でも林房雄なぞに云々され、流行せんとする傾向があるが、本来はそんな軽率な、皮相的なものではないのであろう。

  五、ユーモア小説

 一体、ユーモアとは、現象の見方にある。人生に、到る処に絶えない数限りなき悲劇的現象を、喜劇的に見たものがユーモア小説なのである。だから需要は常にありながら作者が非常に、稀なのである。ユーモア小説作者の稀なことには、二重の不利が存在するからである。一つは、他から反感を抱かれ勝ちであること。そして、今一つは、作法上に非常に困難があるので、教養あるものに解るように書けば、無教養な人達にはその面白さなり諷刺なりが理解されない憂いがあり、教養少き人達の為に解り易くすれば、教養あるものからは駄洒落《だじゃれ》なぞと軽蔑されること。加うるに、我が国に於ける、かの畸形的な、自然主義文学の発達が作品に現れるユーモアを極端に軽蔑したことも、ユーモア作家の少いことの、そして、従って優れたユーモア小説の少いことの重大な原因をしているのである。現在、ユーモア小説作家としては、大泉黒石、佐々木邦の二人を除けば、皆無といっていいであろう。私の考えでは、かの夏目漱石の「坊っちゃん」や「吾輩は猫である」は、立派なユーモア小説であると思っている。
 現在、世にユーモア小説として喧噪されているものの殆んど総ては、低級な言葉上の洒落とか、業々しく無理にユーモア的に歪められたる会話、故意に笑わそうと作られたるもののみである。かかるもののみがユーモア小説とされている現状に於て、我々は大いに考え直さなくてはならない。
 だが勿論、ユーモアには、言葉及び会話の自然的な可笑しさが重大な役目を持つのである。外国のユーモア小説が翻訳されても、面白さが半ばなくなるのもその為である。例えば、改造社の世界大衆文学全集で翻訳されているし、フィルムにもなって我国へ輸入されたから、読者諸君も知っているだろうが、亜米利加で驚くべき売れ行きを示しているアニタ・ルース夫人作の「殿御は金髪がお好き」というユーモア小説でも、原書
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