く、より一般化して、変態的ならざる、正常的な発達を遂げたのであった。
 そして、最初には、何よりも大衆に喜ばれ、理解され易い種類のものが翻訳され初めた。即ち「探偵小説」と「冒険小説」とである。そして、その当初に於ては、それ等探偵小説や、冒険小説の読者は、宣伝文学の訳者と同じ人の手になったのであった。
 主なる例を次に挙げよう。
 森田思軒の「探偵ユーベル」、「間一髪」、原抱一庵の「女探偵」、徳冨蘆花の「外交奇譚」、黒岩涙香の「人外境」等。
 では、何故、当時探偵小説が一般に喜ばれたのであろうか、と云うと、憶うに当時は、尚自由民権の叫ばれた直後であり、仕込み杖の横行した時代であったが故に、自然一般の空気がかかる風潮に影響されていて、従って探偵的興味が強く人心に働き、かかる情態に適応したものであって探偵小説が流行したものの如くである。
 現代を、探偵小説流行の第二期とするなら、当時は、方《まさ》にその第一期に当っていると云い得るだろう。その翻訳小説の盛大を極めたのと同時に、探偵小説の創作も、盛んに行われたのであった。
 例えば、「お茶の水婦人殺し」だとか、「大悪僧」だとか、「ピストル強盗清水定吉」、「九寸五分」、「因果華族」等が書かれた。
 併し、それ等創作探偵小説の愚劣さ加減と来ては、言語道断なものがあった。即ち、新聞記事中の事件は、直ちに小説に書きあらためられるのであって、例を挙げるならば、近頃の説教強盗といったような、当時世間を震撼《しんかん》させたピストル強盗清水定吉とか、稲妻小僧坂本慶次郎とかは、忽ち探偵小説となった。だから、探偵小説を創作すると云うよりは、寧ろ新聞記事の小説化と云った方が妥当であろうと思う。そして加之《しかのみならず》、事実を興味深く粉飾するために、何の小説にも一様に、護謨《ゴム》靴の刑事と、お高祖頭巾《こそずきん》の賊とが現れ、色悪と当時称せられた姦淫が事件の裏に秘《ひそ》んでいるのに極まっていた。
 以上のような、程度の低い、探偵小説は、やがて、当然行き詰らざるを得なかった。そうして、それに代って、冒険小説が勢力をもち始めた。
 此処に冒険小説とは、大人子供の如何に拘らず、興味深く愛読出来る冒険談、或は探険談と呼ばるべき種類のものを指すのである。それ等探険小説、或は冒険譚というものは、日本の嘗ての要素に全然無かった種類のものを含んでおって、小説そのものも、事件それ自身も、当時の人々の未知のものであり、無経験のものであり、空想だにもしなかったものであった。換言するならば、当時、日本の文芸にとって、全く新しき境地であり、開拓地であったのである。宜《むべ》なり、当時の新らしき文学を理解し、信奉する、主として若き、新進気鋭の徒は、悉《ことごと》くその方に走ったのであった。
「地底旅行」「海底旅行」「三十五日間空中旅行」等の、当時の人々の好奇心を煽り、空想力を楽しましめるに充分な読物が現れ、
 森田思軒は、「大東号航海日記」「大|叛魁《はんかい》」「十五少年」を書き、
 松居松葉は、「鈍機翁冒険譚」を発表し、
 菊池幽芳は、「大宝窟」「二人女王」を書き、
 幸田露伴は、「大氷海」を、
 桜井鴎村は、「三勇少年」「朽木舟」「決死少年」を、
 そして、
 押川春浪は、「武侠艦隊」「海底軍艦」「空中飛行艇」を発表して、世の喝采を博した。
 その他、
 スタンレーの「アフリカ探険記」、キャピテン・クックの「世界三週航実記」、「ロビンソン・クルーソー」、「不思議の国巡廻記」「アラビアン・ナイト」等が翻訳された。
 かくの如く、冒険、乃至《ないし》は探険小説の発達は、当時の少年文学に大きな刺戟を与え、少年文学が提唱された。即ち
 尾崎紅葉は、「侠黒児」を書き、
 巌谷小波は、「黄金丸」を発表し、
 川上眉山は、「宝の山」を、
 土田翠山は、「小英雄」を、
 与謝野鉄幹は、「小刺客」を書き、
 黒岩涙香に依って、「巌窟王」「噫《ああ》無情」が翻訳されたのであった。
 時代物としては、
 外山|ゝ山《ちゅざん》の、「霊験王子の仇討」(ハムレット)、「西洋歌舞伎葉列武士」が現れ、
 村上浪六は「三日月次郎吉」「当世五人男」「岡崎俊平」「井筒女之助」と彼の傑作を続々と発表し、
 塚原渋柿園は「最上川」を、
 村井弦斎は、「桜の御所」を報知新聞に書き、その他、「衣笠城」「小弓御所」を著した。
 加之《しかのみならず》、新聞小説も漸く盛んになり、
 恋愛物としては、
 蘆花の「不如帰」が著され、
 紅葉山人の「金色夜叉」が明治三十年に出でて、世に喧伝され、
 弦斎の「日出島」が出て、
 幽芳は、三十三年大阪毎日新聞に、「己が罪」を書いて世の子女を泣かせ、
 小杉天外は、「魔風恋風」を三十六年読売新聞に連載し、大倉桃郎は、「琵琶歌」を書いた。
 同時に、講談は、明治十一年に表れた「牡丹燈籠」を最初として、之又続々と新聞に連載された。
 以上のごとく、通俗小説は、明治三十年頃を絶頂として未曾有の盛観を極め、更に百花撩乱たるの観あること、今日の大衆文芸の盛んなること以上であった。今日の如きは大衆文芸の重要なる一分野である少年文学は全く見る影もなく衰えている。この当時の文壇と、震災以前、大衆文芸勃興以前の文壇とを比較して見るなら、如何に文壇小説がその後、尊ばれ、以外の文学が軽蔑され、衰えたかを一目瞭然と知ることが出来るであろう。例えば少年文学にしても、その分野に踏み止るもの小説唯一人であった。
 かかる文壇小説偏重の悪傾向は、如何なる原因より発し如何にして助長されたのであろうか。
 我々は、此処で、日本に稀なる四人の文芸批評家の出現を省《かえり》みなければならない。即ち、高山樗牛、森鴎外、坪内逍遥、島村抱月が之である。当時、我国には前述の如く、通俗小説以外に文芸は皆無であった。彼等四人の評論家は口を揃えて、文学の正統性を論じ、純粋文芸の必要を力説し、主張し、堂々たる文学論を戦わしたのであった。彼等の云わんとする処は正しかった。彼等は文芸を正道に帰さんと試みた。斯《か》くして、彼等の文学論は、遂に圧倒的な勢力を文壇に占めるに到って、世の文学者、作者は、今度は悉く通俗小説を棄てて彼等の下に馳せ参じたのである。以後、通俗小説に踏み止まったものは、今まで通俗小説を書き馴れて来た老人達のみで三十年以前から書き来《きた》った儘《まま》に、漸く消えなんとする通俗文芸の命脈を保っているに過ぎなくなった。
 樗牛、鴎外、抱月、逍遥四人の優れた評論家が唱えた処は、誠に正しかった。併し、その文学論は、今度は反動的に、文壇小説偏重の傾向を培い、文芸を文壇小説一種に限らんとする努力がなされるに到った。加うるに、日本に於ける自然主義文学運動が次第に盛んとなるや、この傾向を愈々助長促進せしめ、自然主義文学者に非ざれば、作家に非ず、とまで叫ばれるに至った。その後、文芸上の風潮は人道主義派、新理智派とそのイズムの色に変化はあったが結局彼等は、文壇小説以外の通俗文芸を度外視し去り、従って通俗文芸に対する、若き作家達の関心、努力は全く無くなって了ったのであった。このようにして、震災以前の大衆文芸は、沈滞その極に達した。
 蓋《けだ》し、今日の大衆文芸の隆盛は、必然的なものであって社会がかくも大衆的にならなくても、新らしい通俗文芸は当然起らねばならぬ機運にあったものだと云い得るのである。
 そこで、話は震災以後に移るのであるが、震災以後に於ても、本田美禅、岡本綺堂、前田曙山、江見水蔭、渡辺黙禅、伊原青々園、松田|竹嶋人《たけのしまびと》と云うような人達が通俗小説を相変らず発表しているのであるが、之等の人は、謂わば硯友社派の残存者達であり、文壇小説家としては落伍した連中であって、残念ながら新らしき大衆文芸の復活者とは決して云えないのである。
 復活以後の最初の作品として挙げるべきは、震災前即ち大正四五年に東京|都《みやこ》新聞に連載された、中里介山の「大菩薩峠」である。今日でこそ、大衆文芸の一典型とまで持囃《もてはや》されているが、発表当時は勿論、大正十二三年頃に到る迄は、その存在すら一般には認められなかったのであった。その他、国枝史郎は、講談雑誌へ「蔓葛木曾桟」を書き、白井喬二は、人情倶楽部へ「忍術己来也」を、大佛次郎はポケットに「鞍馬天狗」を書いていた。然も、之等も亦、殆んど全く人々の注目する処とはならなかったのであった。
 大正八九年頃、当時、私は「主潮」と謂う雑誌を編輯《へんしゅう》していたのであるが、その中で、私は「大菩薩峠」と、後藤宙外の大阪朝日新聞に書いた小説とを比較して、「大菩薩峠」の優れていることを賞讃したことがあったが、それも又一般の人々の認める処とはならなかったのである(以下、少々私自身の自慢のように聞えるかも知れないが、事実であるから何とも致しかたのないことだと思う)。その後、春秋社に這入《はい》った私が、喧嘩別れをして出た時に、大菩薩峠を置土産にして去ったのであった。
「苦楽」が発行されることになって、私が編輯の任に当った。そこで私は有名な文壇人達に同誌上へ通俗小説を書いて貰い、自分も書いた。それから大衆文芸の機運が漸く動き始めたと云っていいと思うのである。そこで、長谷川伸、平山蘆江、土師《はじ》清二、村松梢風、大佛次郎、吉川英治等が続々と新らしい大衆文芸を提供し、広汎な読者層が、之に応じ始めたのである。
 この新らしく勃興し来った大衆文芸が以前のそれと異る処は、次の諸点であろう。
 即ち、人物に人間性を与えたこと、物語が事実らしくなって来たこと、文章に新鮮味が加わったこと、等であるが、批判という点では、矢張り殆《ほと》んど欠乏していると云わなくてはならないであろう。
 震災後、起って来たプロレタリア文芸が、実に盛んになって、今日プロレタリア文芸理論の論議が喧噪《けんそう》を極めているのと同様に、将来を期待される大衆文芸も亦、今やその理論を一応は確立すべき時にまで立ち至っているのではないだろうか。新聞紙上に於ても、屡々《しばしば》大衆文芸が問題となっているのを、我々は見るのである。我々は、将来の発展の見通しをつけるためにも、大衆文芸理論を、兎も角も確立する必要があるのではなかろうか。
 併しながら、私は此処で、大佛次郎の、或は某々、等の大衆文学に関する論を或は反駁し、或は賛成して、議論を闘わそうとは思わない。唯、かかる過程を経て起って来た現在の日本の大衆文芸は、かく進んで行くべきであり又進んで行くであろう、と云うようなことをこの章の結論として一般的に述べるに止めたいと思うのである。凡ゆるものは、原因があって起り、そしてそれ自らが持つ最大限度には発展し得るものなのである。大衆文芸も亦、私が再三述べて来たように、一般的には、資本主義的な世界思潮の波に乗って生れて来、特殊的には我国に於ける自然主義文芸運動の変調的発展に堰き止められたために特に遅れて、併し反《かえ》って急速に、近頃になって再び新らしく起って来たのであった。そのことは、第二章の意義の処で可成り詳細に述べたと思うからここには云わないことにする。かかる必然的結果として文学の一部門中に誕生した大衆文芸は、従って芸術小説とは自らその性質を異にして広汎な読者層を包含する故に、階級的な特殊性を避けようとしても避け切れないものがあるのではないかとも思われる。勿論、現在、興味のみのもの、興味即ち事件の運びの面白さと謂ったもののみで、成立した大衆文芸が存在し得るのは事実だ。だが、大佛氏が云うように、現在の資本主義的ジャーナリズムが握っているように思われる所謂「大衆」が、その歴史的必然の途を踏んで階級の特殊性を愈々自覚して来る時、現にしつつあるごとく思われるが、その階級的分離の速度を強めて行くのは当然だからである。そして、作家それ自身もやはり社会生活をするものである以上、彼等自身何等かの色づけをされざるを得ないのではないだろうか。即ち、作家達個々の良心に従って、個々の大衆作家の描く作品そのものも変って
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