アメリカ資本主義のジャズ文明の洪水《こうずい》は、世界の人達を溺らそうとしている。人々は、或は、憤然として奥床しく、深淵なるものの犯されていくのを慨歎するであろう。しかも、慨歎しながらも彼等は共に、その世界に氾濫《はんらん》したアメリカ文化の濤《なみ》に捲込まれ、流されて行かざるを得ないのである。ラジオに、ジャズに、シネマが横行する。人々は、それに感染して、行く所を知らない。
 この加速度的な生活の目眩《めまぐ》ろしさは、人々が垂れこめて、深く思索にふける余裕を与えない。人々は我知らず、生活の苦しさから匍《は》い出んとして、瞬間的な享楽を求める。街にはシネマがある。赤い燈、青い燈、のカフエがある。街中の店という店ではラジオが呼んでいる。かくて、今や世界は未曾有《みぞう》の速力と混乱が到来した。この問題の一切は、やがて直接的な社会運動が解決してくれるであろう。
 だが、ここで、私は文芸に眼を転じよう。文学はこのあわただしさに耐え兼ね、面食《めんくら》った形である。それが、外の芸術と異なり、文芸は、時代を背景とし、時代意識を把握しなくてはならないものだけに、又、従来は、人間の永遠的感情を描
前へ 次へ
全135ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング