かんとし、単に、人間の感情のみへ突入していただけに、外界の急激な変化より来る思想、感情の動揺に対して、手をつける事を知らぬ様である。言葉を換えて云うなら、文学史上、新らしく勃興して来た一つの文芸が、完成爛熟期に到達するためには、半世紀間或は一世紀間なりの文明の継続を必要としたのである。この社会の急激な変転に圧倒されて、遂にそれを一つの形式にまで作り上げる余裕が現在ではない。従って、従来の如き、人間の永遠性を深く凝視し、魂の底を握らんとする如き文学は、読者に迎えられないのみならず、又、描かんとする人にも、外界はあまりに騒がしくなりすぎているのである。アメリカがいい適例である。アメリカの資本主義は建国以来、実に急速に発展してきた。アメリカには現在、芸術と呼ばるべきものはない。
 十九世紀の末葉から二十世紀にかけて輩出した大文豪達、トルストイ、ドストエフスキイ、イプセン、等々の文芸が、既に現在の読者にとって刺戟《しげき》がなくなって了《しま》ったことは、再三述べた。人々は、最早、文芸を読むことによって生活をよくしようなぞという望みを失ったのである。民衆は、この七転八苦の物質的生活の苦悩から避
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