るということが、その発達の少くとも一つの原因をなしていると考えられる。
 絵画でいうなら、かの芳年の非常に残忍な絵が一時非常に流行したことを憶い比べても、日本人という人種が単に好戦的な、惨酷な国民であるなぞというような表面的な見方ではなくして、我々には可成りに剣戟に対する一種特別な伝統的な感覚をもっている、と強調したいほどに思われるのである。
 否、シナ人とか、その他外国人とかが行う虐殺、拷問、死刑なぞは、日本人には到底堪えられないような惨酷さがあるのである。そういった実行的なことになると、日本人は反って割合にあっさりしているようである。ところが、芸術上では世界独特の剣戟殺人の形式と感覚を創造したのであった。
 こういう意味で、一口に剣戟は下等だ、いや反動的だと大ざっぱな言葉で片付けて了うことに私は反対するものである。歌舞伎劇に於て、かくまでも発達、完成された形式美と特殊な感覚とを味わい得ないものには、同時に、剣戟という一要素がなぜかくまで大衆小説を発達させ得たかに考え及ぶことは、とても不可能なことだろう。
 一般に、芸術的非芸術的を別にして小説をうける[#「うける」に傍点]ように、売
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