のことといわねばなるまい。
だから、可成|出鱈目《でたらめ》の事件もあり、荒唐無稽の人物も出没し、ただ専《もっぱ》ら、事件の波瀾重畳のみを本意として興味をつなぐ以外に何ものも見いだし得ないのである。
この傾向に抗して、かの大佛次郎君なぞは大衆物に、より芸術的なもの、小説的なものを与えようと努力し、効果を挙げているし、その他にも次第にかかる傾向の作品が現れて来たようであるから、何れ大衆文芸が小説として評価されるときも近いであろうと思われる。
現在の大衆文芸に関して、私は、今、興味中心、娯楽中心なぞと一口にいって了ったけれども、この意味を少し深く考えて見ると、次の二つに区別されるようだ。
すなわち、恋愛と剣戟《けんげき》と。その二つの交錯が織りなす物語であって、その二つの要素以外に何もない。どの大衆物を見ても、その題材が以上の点で限られている以上、殆んどあらゆる点に於て制約されて来る。だから、どれを読んでも同じような事件と人物のために、遂に読者に厭かれてくるのは当然のことであろう。
ところが、大衆文芸が(或は時代映画――剣戟映画が)、厭かれはじめながら、なお且、甘ったるい恋愛とチ
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