アメリカ資本主義のジャズ文明の洪水《こうずい》は、世界の人達を溺らそうとしている。人々は、或は、憤然として奥床しく、深淵なるものの犯されていくのを慨歎するであろう。しかも、慨歎しながらも彼等は共に、その世界に氾濫《はんらん》したアメリカ文化の濤《なみ》に捲込まれ、流されて行かざるを得ないのである。ラジオに、ジャズに、シネマが横行する。人々は、それに感染して、行く所を知らない。
この加速度的な生活の目眩《めまぐ》ろしさは、人々が垂れこめて、深く思索にふける余裕を与えない。人々は我知らず、生活の苦しさから匍《は》い出んとして、瞬間的な享楽を求める。街にはシネマがある。赤い燈、青い燈、のカフエがある。街中の店という店ではラジオが呼んでいる。かくて、今や世界は未曾有《みぞう》の速力と混乱が到来した。この問題の一切は、やがて直接的な社会運動が解決してくれるであろう。
だが、ここで、私は文芸に眼を転じよう。文学はこのあわただしさに耐え兼ね、面食《めんくら》った形である。それが、外の芸術と異なり、文芸は、時代を背景とし、時代意識を把握しなくてはならないものだけに、又、従来は、人間の永遠的感情を描かんとし、単に、人間の感情のみへ突入していただけに、外界の急激な変化より来る思想、感情の動揺に対して、手をつける事を知らぬ様である。言葉を換えて云うなら、文学史上、新らしく勃興して来た一つの文芸が、完成爛熟期に到達するためには、半世紀間或は一世紀間なりの文明の継続を必要としたのである。この社会の急激な変転に圧倒されて、遂にそれを一つの形式にまで作り上げる余裕が現在ではない。従って、従来の如き、人間の永遠性を深く凝視し、魂の底を握らんとする如き文学は、読者に迎えられないのみならず、又、描かんとする人にも、外界はあまりに騒がしくなりすぎているのである。アメリカがいい適例である。アメリカの資本主義は建国以来、実に急速に発展してきた。アメリカには現在、芸術と呼ばるべきものはない。
十九世紀の末葉から二十世紀にかけて輩出した大文豪達、トルストイ、ドストエフスキイ、イプセン、等々の文芸が、既に現在の読者にとって刺戟《しげき》がなくなって了《しま》ったことは、再三述べた。人々は、最早、文芸を読むことによって生活をよくしようなぞという望みを失ったのである。民衆は、この七転八苦の物質的生活の苦悩から避《のが》れんとして、勢い享楽的なものを求める。そこで、そこに文学的欲求がある限りに於て、人々は通俗的文芸の出現を望むようになる。ここに通俗的なる文芸、大衆文芸の発生、隆盛がかもし出されるのである。
この場合、勿論、科学の発達の中に含まるべきことではあるが、特に文芸に於て注意して置くべきは、印刷術の発達普及ということ、従って一般読者のレベルの向上、及び読書力の普及ということである。これが大衆文芸発達の一原因であるのは云うまでもないことである。
芸術的小説の衰頽《すいたい》、大衆文芸の発展は、これを世界中、凡ゆる処に例をとることができる。フランスに於ては、今や洒落《しゃれ》文学といったようなものが全盛を極めているし、アメリカに於ては、前に述べたように、勿論、芸術小説は皆無と云っていい。独逸《ドイツ》に於ても、諸君が丸善へ行ったら一見してわかるように黄色本という奴が流行している。イギリスでは大衆文芸が全盛である。新興のロシヤに於てさえ当局がかくも文芸を奨励しているに拘らず、まだ偉大な新らしき時代のトルストイも、ドストエフスキイも出現しないように見受けられる。日本で円本の乱出のために芸術小説が行詰ったなぞというのは、浅薄《あさはか》な考え方であって、やはり日本も、世界の潮流に圧し流され、同じ原因から、既に芸術小説が行詰ったと見るのが正しい。もし、円本のために行詰ったというのが正しいとすれば、読者はその程度の欲求しかないことになり、かかる読者の欲求なりとすればそれは実につまらないことであり、一方作者は自身の芸術的無力を自覚して、小説を書くことを止めたがいいのである。だが、読者は決して、そんな欲求に甘じているのでは無い。きっと広汎な読者層は、芸術小説にあきたらず、寧ろ熱烈に大衆文芸を求めてやまないことを、事実が証明している。日本の特殊的な事情については後に述べる積りである。
そこで、私が芸術小説の衰頽と云ったのは、決して滅亡を意味しているのではない。総て、物には、芸術にも、時代的な変遷というものがある。例えば、彫刻は何といっても希臘《ギリシャ》時代が最も発達していた。併しながら、彫刻という型の芸術は現在にも滅びずに残っている。他に例を挙げれば、現在アメリカには純粋絵画は存在せず、絵画はポスター絵画として描かれているに過ぎない。そんな意味で、私はここで、芸術小説の衰頽と云っ
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