たまでである。
さて、最後に、特に日本の文芸史に関して一言しなければならぬ。それは、日本の大衆文芸の発達上、重大な一要因だからである。私は、この章の頭初に於て、人間はあまりに精神生活を過重評価したことを述べた。それは、世界の文明に後れて発達し、あまりにあわただしく世界文明を輸入したために、不消化の部分が可成残って、特に、以上のことが変態的に日本の文芸の発達の障害をなしたという事実である。繰返していうなら、日本に於て、特に、何の感激をも読者に与えない、陳腐にして常套なるものが、あまりに多く描れた。即ち、明治の末期より、大正、そして現在へかけての自然主義文学の輸入、跋扈《ばっこ》、従って極端なる、異常事件の軽蔑、興味の否定、そのために、日本の文芸は畸形《きけい》的発達を遂げた。その残滓《ざんし》が今も尚存在し、今度はかえって、日本の近代文芸の取材の行詰りをきたし、世界的な文芸衰微と合流して、芸術小説の不振を招く結果になったのである。この事は亦、日本に於ける大衆文芸発達の一原因となる。
そうして、一方亦西洋文芸のあわただしい輸入のために充分の余裕がなかったことにも起因するのであるが、日本には芸術小説以外の他の種類の文芸の極めて少いことが最後に大衆文芸発達を将来した原因となって来るのである。
西洋に例を取って見るのに、立志小説としては、マロックの「ジョン・ハリファックス・ゼントルマン」だとか、少年小説としては、スチブンソンの「宝島」だとか、アミーチスの「クオレ」だとか、マロオの「家なき少女」だとか。科学小説としては、ウェルズの諸作だとか、冒険小説風の読物としては、ハッガードの作品とか、トウエンの「ハックルベリー・フィンの冒険」「トム・ソーヤの冒険」だとか、家庭小説としては、「黒馬物語」とか、ファラアの「三家庭」とか、ホオソンの「緋文字」とか、目的小説としては、「アンクル・トムス・ケビン」だとか、歴史小説としては、シェンキヰッチの「|何処へ行く《クオ・ヴァディス》」だとか、ヂケンスの「二都物語」だとか、伝奇小説としては「アラビヤン・ナイト」とか、ゴーゴルの「タリス・ブルバ」だとか、「ロビンソン・クルーソー」だとか、その他、「不思議の国巡廻記」と、ラムの「シエクスピア物語」とか、フェヌロンの「テレマック物語」とか、オルコットの「四少女」とか、キングスレーの「ハイペシャ」とか、ヂューマの「黒いチューリップ」とか、探偵小説では、有名なルブランのアルセーヌ・ルパン物、コナン・ドイルのシャロック・ホームズ物、その他チェスタートン、フレッチャー等々。以上のような種類の文芸の傑作が、日本には、少くとも明治以後には皆無だといっていい。しかし、文壇小説の沈滞にあきたらず、以上の如き種類の文芸作品を痛切に欲求する事は、日本の読者も何ら変りはない。否、その畸形的な発展のために、かえって、助長されたかの感があるのである。
かくの如くにして震災後日本に於ける大衆文芸は、勢すさまじく発達してきた。だがそれは未だ発達の最初の段階に過ぎないのである。現在ではその一部分が発達したに過ぎない。大衆文芸の発達は愈々これからである。髷物に、現代物に、そして少年少女小説に、探偵小説に、冒険小説に、伝奇|譚《だん》に、大衆文芸は愈々、広汎に、愈々深く、読者大衆の中に氾濫して行きつつある。この愈々混乱し速力を増す一方、大衆の貧困の激する処あくまでも娯楽的で、そして啓蒙的なものとしての、大衆文芸の発達は、増々将来に於て見るべきものがあるであろう。然も、大衆文芸に於ては、興味そのもののみにて、何ら目的物でなくしても、独立して成立つということを注意に止めて置いて欲しい。
以上、私は大衆文芸の意義について述べて来た。で、次の講義には、日本の大衆文芸の歴史的発達過程から講義を続けようと思う。
第三章 大衆文芸の歴史
本章では、私は、日本の大衆文芸が如何なる歴史的過程を経て発展して来たか、について講じたいと考える。
さて、一体、日本には、古代から大衆文芸と称《よ》んでいいような文芸作品が存在したのであろうか、という疑問が起って来るであろう。私の考えに依るならば、かの「竹取物語」とか、「宇治物語」とかなぞは、当時の通俗小説であったと見て、何等差支えないと思うのである。そういう見方でするならば、そこで又そんな見方で私は正しいと思うのであるが、その各々の時代の社会的条件に依って、仮令《たとい》その読者範囲が限定せられ、今日のように、否将来愈々そうであるだろうように、広大な読者層を持つことは不可能であったにしても、兎に角、私が最初に云った意味の、一般的な、興味中心の通俗的な文芸作品は、ずっと古くから我が国にもあることはあったのだと云える。
だが、余り古い時代のことを、此処でぐず
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