室で今一方は身分ある客の為めに充てられて居た。……仕切りと云っても只棒を二本立てて、それに帷の代りに、フォルチュナーテの古い、色の褪せた上衣を渡したものに過ぎなかった。此の二本の棒……は嘗て昔は金箔を施してあったものだが、今ではもう大分前から方々に罅《ひび》が入ったり剥げたりして居る。
仕切布で隔てられた清潔な方の室では、錫の鉢と幾つかの杯を載せた卓を前に控えて、此の家にたった一つしかない幅の狭い破れた寝台の上に、羅馬軍第十六連隊第九中隊長マルクス・スクーヂロが横になっていた。……同じ寝台の足下の方に、さも窮屈らしく恭々《うやうや》しげな恰好をして坐っていたのは、第八、百人隊長のブブリウス・アクヴールスという喘息《ぜんそく》持で赭《あか》ら顔の肥満漢で、天辺のつるり[#「つるり」に傍点]と剥げた頭には疎らな胡麻塩の毛を後ろの方から両鬢《りょうびん》へかけて撫で付けている。少し離れた床の上では、十二人の羅馬兵が骸子《さいころ》を弄《もてあそ》んでいる。
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ここで兵士の描写が出ているが、後半に出て来る羅馬軍と波斯《ペルシャ》軍との戦争は、頗《すこぶ》る興味のあるものであった。波斯軍は戦象と云うのを用いている。
象軍は、耳を聾《ろう》する様な咆哮《ほうこう》を立てて、長い鼻を巻き上げながら、肉の厚い赤く湿った口をくわっ[#「くわっ」に傍点]と開くのであった。その度に、胡椒と香料を混じた酒の為めに、狂気の様になった怪物の息が、羅馬兵の顔にむっ[#「むっ」に傍点]とばかり襲うのであった。これは、波斯人が戦闘の前に、象を酔わすに用いる特別な飲料なのである。朱泥を以て赤く塗り上げ、それに尖った鋼を被せて長くした牙は、馬の横腹を突き破り、長い鼻は騎士を高く空中に巻き上げて、大地へ叩き付けるのであった。……背中には革で作った哨楼《しょうろう》が太い革紐でしばり付けられて、その中から四人の射手が、松脂《まつやに》と麻緒を填《つ》めた火矢を投げるのであった。――それに対する羅馬軍の防禦はと云うと、軽装したトラキヤの射手、パプラゴニヤの投石手、それにフルチオパルブリと称する、鉛を流し込んだ一種の投槍の上手なイリリヤ隊が立向う。彼等は象の眼をねらって槍を投げる。象は狂奔する。哨楼を縛りつけている革紐を断ち切る。射手は地上に投げ落される。そして巨大な怪物の足下に踏みつぶされる。
波斯軍には鉄騎隊だとか車隊だとか云う恐ろしいものがある。鉄騎隊と云うのは、全身を鱗のような鋼の小札《こざね》で被っていて、只眼と口を除く外は殆んど不死身と云っていい位に武装した騎士達と、更に太い鎖で互に繋ぎ合って一団となってやって来るのである。車隊は、戦車の車軸や車輪に鋭い鎌を結びつけて、足の細い斑馬《ゼブラ》に索かせて突撃して来るのである。鎌に触れた羅馬兵は、まるで菜の葉の様に刻まれてしまう。こんな恐ろしい武器に対する羅馬軍の攻撃方法、楯隊の防禦戦、皇帝が駱駝《らくだ》に跨がって逃げる様子等、真に当時の残忍なる戦争が活々と描き出されている。
前述の下層社会の描写に対して、上流社会の生活は、コンスタンチヌス皇帝の髯剃《ひげそり》の一状景を見れば充分であろう。でもう一度、長々しい引用を許して戴きたい。
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理髪師は丁度神秘の儀式でも行う様な顔付をして居た。両側には、今帝国内で威勢並ぶものなき侍従長のエウセビウスを始めとして、様々の器や、塗料や、手拭や、塩などを捧げた無数の寝所掛りが並んでいた。其外に二人の扇持ちの少年が控えている。彼等は髯剃りの秘法が行われている間じゅう、六つの翼を持った天使の形をした、薄くて幅の広い銀の扇で皇帝を煽ぐのであった。
理髪師はやっと右の頬を終って、左の方へ取り掛った。そしてアフロヂテの泡と呼ばれている、阿剌比亜《アラビヤ》の香水のはいった石鹸を丁寧に塗りながら、……皇帝の朝の化粧は終りに近づいた。彼は細い刷毛《はけ》を以て、金線細工の小箱から少しばかりの頬紅を取った。それは聖僧の遺骸を収める箱の雛形とも云うべき形をして、蓋には十字架がついていた。コンスタンチウスは信心が深くて、七宝の十字架や基督の頭文字《モノグラム》などが、あらゆる隅々の細々した道具についているのであった。彼の用いる紅は「プルプシマ」と云って紫貝を沸騰させて其の薔薇色の泡を精製した、一種特別の高価な品であった。……紫の間と呼ばれている部屋には、「ペンタビルギオン」という、上に塔の五つ並んでいる風変りの戸棚の中に、皇帝の衣裳が蔵《しま》ってあったが、此の部屋から宦官《かんがん》が皇帝の祭服を運んで来た。それは殆んど折ることの出来ない程ごわごわした、金や宝石で重い様な着物で、その上には羽の生えた獅子や蛇などが紫水晶で刺繍《ぬ》
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