史実の不詳な人物に活躍させることもあるではあろう。それ等は全くその小説自体の歴史的空気を乱さない範囲に於て、即ち、史実を曲げない限りに於て、最大限度に許されてもいいことであると思う。
以上、私は声を大にして、真の大衆作家の普通の教養としての学究的研究、考証的知識の必要、具備を叫んで来たのであるが、併しながら、この史的知識の涵養《かんよう》ということは、殊に日本に於て甚だ困難なのである。もし諸君が足利時代以前の歴史小説を書こうとするとしよう。すると、諸君は、幾多の興味ある題材の存在しているにも拘らず、その外観に歴史的光輝を与える、言語、住宅、衣服、食物、習慣、等に関しての伝記的書物の甚だ僅少なのに驚くであろうと思う。当時の上流社会のものはまだしも相当に残されているものがあり、それによって見、或は想像出来るのであるが、平民生活のものに至っては愈々少いことを痛切に感じるであろう。日本の史家の大部分が官僚であったが故に、当時の政治的中心の関係事項等は可成残されているに拘らず、全般的に於て欠ける処甚だ多いのである。この事実は、時代を遡《さかのぼ》るに従って愈々甚だしく、且簡単極るのである。
で、それらを知るためには、何うすれば最も便利であるか、と云うのが重要な問題になるが、日本食物史、日本住宅史、日本旅行史等及び幾種かの、日本服装史等の、主として絵巻物に依るのが、当時の風俗を知るのに最も便利な方法であると思う。歴史風俗を検べるに当って、文書に依るよりも絵巻物に依る方が便利であるのは、階級の上下に渡って顕著な特徴がよく現れているからである。
時代の空気を描出する点に於て、この外形的材料が不足していることは、日本に於ける歴史小説の未発達の力強い一因をなしていると云える。例えば、幾つかの支那の古事をさえその小説に描いている、精力的にして好学の作家、馬琴に於てさえ、日本の歴史的風俗に於ては甚だしい知識不足を暴露しているのである。
然しながら、あらゆる努力を経た後に於て、尚不明な点があって、その不明な点が時代を現す上に必要であるとすれば、そんな場合に歴史小説家としての空想は作者の思うままに発揮されていいのである。
私はその内二三の例をメレヂコフスキイの作品の中から取り来って見ようと思う。「神々の死」別名「背教者ジュリアン」は、基督《キリスト》教と希臘思想《ヘレニズム》の闘争時代である四世紀の羅馬《ローマ》に於ける史実を描いたものである。作者は彼の深奥なる哲学的及び文明史的なる知識を傾注して、描写の精細を極めている。例えば「地中海の海岸なるシリアの商港、大アンチオキヤ湾に臨んだセレウキヤの汚らしい、貧乏臭い町|端《はず》れ」をかく描いている。
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……家々は檻の様なものを乱雑に積み上げて、外側から粘土で塗りたくった丈に過ぎなかった。中には往来に面した方を、まるで汚らしいぼろ切れか蓆《むしろ》のような、古|毛氈《もうせん》で蔽っている家もあった。……半裸体の奴隷達は船の中から歩き板を伝って、梱《こうり》を担ぎ出して居た。彼等の頭はみんな半分剃り落されて、ぼう[#「ぼう」に傍点]の隙間からは苔の痕が見えた。多数の者は顔一面に黒々と、焼けた鉄で烙印が捺《お》されて居た。夫は Cave Furem を略した拉丁《ラテン》文字のCとFで、その意味は、「盗賊に注意せよ」と云うのであった。…鍛冶屋から鎚《かなづち》で鉄板を打つ耳を掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》る様な音が聞え、鎔鉱炉からは赤く火影が差し、煤が渦を巻いて立昇って居た。その隣りでは真っ裸になったパン焼きの奴隷が、頭から足の先まで白い粉を被って、火気の為めに瞼を赤く火照らし乍《なが》ら、パンを竈《かまど》の中へ入れている。糊と皮の匂がぷんぷんしている開け放しの靴店では、亭主が中腰に踞《しゃが》んで燈明の光りで靴を縫い合せ乍ら、喉一杯の声を張り上げて土語の歌を唱って居た。……娼家の門の上にはプリアポスの神に捧げられた、猥らな絵を描いた街燈が点っていて、戸口の帷《とばり》――セントンを挙げる毎に、内部の模様が見透かされた。まるで厩《うまや》の様に小さな狭くるしい部屋がずらり[#「ずらり」に傍点]と続いて、その入口には一々値段が書き出してあるのだ。息の窒《つま》る様な闇の中には、女の裸体が白く見えて居た。……
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更に又、此の小説の冒頭に於けるカッパトキヤのカイザリヤ附近の小さな「安料理屋《タベールナ》」の有様は次のように描かれている。
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……それは藁葺《わらぶ》きの茅屋《ぼうおく》で、裏の方には汚らしい牛小屋だの、鳥や鵞鳥を入れて庇のようなものがついている。内部は二間に仕切られていた。一方は平民
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