知識に依って当時の風俗、歴史が適確に描かれ、その時代の空気を彷彿《ほうふつ》させるような作品であれば、これを歴史小説と呼んでもいいと思う。
 例えば、メレヂコフスキイの「神々の死」は、宗教小説であると同時に、立派な歴史小説であり、それと反対に、アンソニ・ホウプの「ゼンダ城の捕虜」なぞは大衆小説に入るべきものであるように――
 で、この区別は、講義の進行に従って、愈々明瞭になって来るであろう。

    一 歴史小説について

 顧るのに、由来日本には、歴史小説と認めらるべきものは一つもないようである。所謂、何々物語と称せられる軍記物の類いは、事件の推移を語るばかりで、その事件の真実そのものに対する洞察が全く無いのである。且、小説的構成がなされていない。
 それから、ずっと降って、江戸時代の作者のもの、明治年間の各大衆作家、例えば、弦斎、渋柿園、浪六等の達人の作品、更には現在の耀《かがや》ける大衆作家諸君の小説、それ等を検べても解るように、我国には西洋に於ける歴史小説の標準より観察して、歴史小説なるものの水準に達した作品は無いのである。
 歴史小説の第一条件として、歴史小説は大衆小説と違って、飽くまで厳正な史実の上に立っていなくてはならないと云うことが云える。史実上に立って、自分の描き出そうとする適当な世界をその史実の中に発見しようと努力すること、そこに歴史小説を書こうとする大衆作家のよき意図が見出だされるのだと思う。
 例えば、
 坪内逍遥氏の「桐一葉」、或は「沓手鳥孤城落月《ほととぎすこじょうのらくげつ》」とか、
 その他、
 真山青果氏の維新物の諸作品「京都御構入墨者」「長英と玄朴」「颶風《ぐふう》時代」。
 等は、歴史家としての専門的知識、並びに考証が充分になされていて、その史実を基礎として、史実を少しも歪曲《わいきょく》することなくして而も文学者としての正しき解釈を加えたものと見ることが出来るのである。
 然るに、一方、現在|瀰漫《びまん》するところの大衆作家諸君の作品は、史上実在の人物、例えば近藤勇の名前を方便上借り来って、史実を曲げ、気儘な都合よき事件を創造し、剰《あまつさ》え勝手なる幽霊主人公を自由自在に操り来り操り去る等、歴史小説としては許されざること甚だしきものが少くないのである。もし、斯ることが許容されてよきものとするならば、極端にいえば、題材を何も時代に取る必要なく、現代小説で書いても充分こと足りるし、その方がかえって楽なわけである。要するに歴史を取扱う意味が無い訳であろう。
 では、小説に於て、歴史に題材を選ぶことは、何を意味するのか。くだけて云うと何んな面白さがあるのだろうか。ということが、次に問題となって来る。つまり、題材を時代に取ることは、一方では人々の懐古的興味を湧かすと同時に、他方現代起りつつある事実で、自《おのずか》ら興味を惹かれる時、既に昔に起っている事実を持ち来って、現代のその事件に当篏《あては》めようとする所に、歴史小説の面白さがあるのだと云えよう。又は、一つの事件中の関係者に現代人と同じ心理を発見せんとする所に興味深いものがある、とも云えるだろう。即ち、歴史小説に於ては、それを適当な事件上に見出して、史家の研究の許されし範囲内に於ては史実の上に立ち、史家の研究範囲外なる人間性の発展と云う点に於て自らの独創性を発輝し、展開せしめ得るのである。だから、歴史小説を書かんとする大衆作家は、専門史家と同等の、或は以上の専門的知識、換言すると、当時の時代思潮、現在と異っている当時の地理的事実、風俗、習慣、言語、服装、食いもの飲みものの細末に到るまでの考証的知識が必要となるのであって、現在の怠惰な、安佚《あんいつ》な大衆文芸家と云って悪ければ、自然主義以後の日本の各作家、と云っても悪ければ、日本伝来の文人気質、云い換えれば学究的研究を軽蔑する文学者諸氏にはとても堪え切れない努力が要求される訳である。
 併し、大衆作家にして現在の大衆文芸の安価、狭隘さにあきたらないで前進せんと欲するならば、かかる歴史小説に進むより他ないのであるが、尚それ以上に、この程度の心得は、現在、並びに将来に於ける大衆作家として当然持つべきものであろうと考える。
 だからと云って、史家の研究せる範囲で描くということは、学界の定説を毀《こわ》さないという意味であって、それに捉われろということでは勿論ない。歴史家は歴史の事実上に於て必ずしも絶対権威ではない。だから史家の手のとどかない範囲外に出て、その延長を自然に感じさせ得るなら、そんな風な延長は許されるべきであろう。又、一連の事件に於ける史上のある人物を芟除《せんじょ》したり、或は、事件の史的事実を毀さない限りに於て、興味的に又は事件を紛争させる点から、伝説的な、姓名のみ実在して
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