に身を隠します。
 そこの小座敷には、初期の浮世絵師が日永にまかせて丹青の筆をこめたような、お国歌舞伎の図を描いた二枚折の屏風が立て廻されてあって、床には、細仕立の乾山の水墨物、香炉には冷ややかな薫烟が、糸のようにるる[#「るる」に傍点]とのぼっていました。
「おうお蝶か。きょうは来ぬかと思うていたが」
 ふと見ると、屏風の蔭に、友禅の小蒲団をかけて、枕元に、朱|羅宇《らう》のきせるを寄せ、黒八を掛けた丹前にくるまって居た男がある。
 日本左衛門です。――むっくりと起て「一風呂浴びて来るから、待っていてくれ」と、手拭をとる。
「ええ、ごゆっくり」
 お蝶はニッコとしながら、袴腰の若衆すがたで、何もかも打解けた世話女房のように、あたりの物を片づけます。
 この額風呂の庭には植込もかなり多いので、離れの一棟も母屋からは見透されません。手拭を持った日本左衛門は軽い庭下駄の音を飛び石に遠退かせて、向うに白湯気をあげている風呂場の中へかくれました。
 それを、濡れ縁の端から見送っていたお蝶は、彼の姿が隠れると、キッと眠くばりを変えて、部屋の四方を見廻しました。
(中略)
(そうだ! 今のうちに)
 彼女のひとみに、そう言うような意志のうごきが険しく見えたかと思うと、お蝶の手はすばやくそれを元の通り包み込んで自分の袖の下へ抱えようとしかけます。
 すると、不意に濡れ縁の障子が開きました。
「おやっ?……」
「あっ……」とお蝶はあわてて地袋の中へそれを戻して、何気ない顔を作ってひとみを上げますと、日本左衛門ではありません。
「こいつはいけねえ、座敷ちがいをしてしまった。へへへへへ、つい酔っているもんですから、飛んだ失礼をしてごめんなすっておくんなさい」
 無論、額風呂の客にはちがいありますまいが、作り笑いをした眼元に一癖のある町人が、ヒョコヒョコ頭を下げながらぷいと縁先から姿をかくしました。
 ですが、町人の去ったあとも、何時までもお蝶の胸は動悸が納まらないように、あの睫毛の濃い眼を見ひらいたまま、
「ああ、よかった……」
 と、暫く、胸騒ぎをおさえています。
 こうして、ある時は女のまま、ある時は若衆の男姿で、恋に寄せて、彼に近づいておりますが、もし今の挙動をあのけい眼な日本左衛門にちょっとでも見られたならば、もう彼女の運命も長くは無事で居られません。
[#ここで字下げ終わり]

 非常に解り易い文章である。挿雲のそれの様にユーモアとか諧謔味は無い。だが正面から簡単明瞭に描きだすこの作者の表現には、作者独特の正統性と、加うるに柔らかな潤いをもっている。大衆文芸の文章法のよき手本の一つである。
 一般の人達が好むのは、要するに、文章の「朗らかさ」であり、「明快さ」である。大衆文芸の第一の使命が、むずかしい思想や論議を解説的に、通俗的に事件の興味によって、読者を惹きつけながら説明することがあるからには、文章は絶対的に、出来得る限り「話すように書くべし」という原則を破ってはならぬ。
 之を、芸術小説の例に取っても、菊池寛の作品が一般に持てはやされるのは、その一面に於て、明らかに彼の明快にして適確な、無駄のない文章が与《あずか》って力ありと謂わねばならない。もし、難かしい文章と明快な文章との価値比較をするような者があるとすれば、夫《それ》は全く無用なことで、馬鹿の至りであろう。何故なら、名文とは、難渋な表現、難解な形容詞を使った文章をのみ指すのでは絶対に無いからである。話すように書くことは、一見あたかも最も平易に見えるが、事実は、反対に最も困難なことであるのを、諸君は知るであろう。
 最後に、今一つ注意すべきことは、平易な文章というのは、自分の文章の特色を没却することを意味するのでは断じてない、ということである。矢田君に、文の独特の明快さがあるとすれば、吉川君にも亦彼自身の明快さがある。よき文章家には、必ず隠そうとして隠し切れないであろう特色が、自らその文章に浮び出るものである。要は明快であることだ。だが、これは一般論であって、その小説から文章だけを切り放して、内容と別個のものとして論じることは不可能なことである。以下、私は各論にはいるのであるが、そこで各種類の中に、内容と文章とを合せて詳論したいと思っているから、ここではこれ位に止めることにしよう。

  第五章 時代小説

 時代小説は、歴史小説と大衆小説に分類して考えられなければならないことは、先に一応説明を試みて置いた。
 即ち、伝記物、或は髷物、所謂現在の大衆小説と呼ばれるものは、正確なる時代的考証を全く欠き、何等厳密なる史的事実に基礎を置いて書かれてはいない。だから、歴史的にも、風俗的にも無意義であり、従って無価値である。
 処が、仮令《たとい》事件そのものは伝説上に置いても、考証学的
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