首相の、政友会の出鱈目な、すぐ尻尾を出すような馬鹿げさ加減とは問題にならないほど凄いものであることを読者諸君は知るだろう。
 以上のように、外国の「実話」と我国の「実話」とは、従って、亦天地雲泥の差があるのである。日本の「実話」は、だから外国の「実話」ほどの興味を読者にあたえることが出来ない。それ故、「実話」の流行は、殊に我国では一時的なもので、決して永続性を持たないものといわねばなるまい。
「怪奇小説」については、前章「科学小説」の中へ含めてその第一の種類として説明したから、この章でははぶいたことを断って置く。

 第八章 少年小説と家庭小説

 総論のところで述べておいたごとく、「少年小説」は、大人《おとな》物の分類の一切を包含しているのであって、夫《そ》れに英雄と、空想と、驚異との織込まれたものである。だから、それは探偵小説でもあるだろうし、冒険小説であるときもあるだろうし、又英雄的でもあるだろう。ただ作者はあくまでも、少年少女の読物であることを考えねばならない。大人の読んでいい「少年、少女小説」というようなものを考えてはならないのである。何故なら、少年、少女の読物であってこそそれが存在価値をもって来るのであるから。かの「赤い鳥」の鈴木三重吉君の童話が失敗したのも、以上の点に心得違いがあったからで、結果は大人の読むための童話――「少年、少女文学」というディレンマに墜ったのであった。
 だから、「少年、少女小説」の文章に付いていえば、
 一、理屈を抜くこと。
 二、テンポを早くすること。
 三、地の文の少いこと。
 という、この三つの原則を遵守《じゅんしゅ》しなくてはいけない。「少年、少女小説」は絶対に少年、少女が読むために書かれねばならないのだ。
 例えば、立志小説として「ジョン・ハリファックス・ゼントルマン」なぞは代表的なものであろう。
 処が、ここに「家庭小説」とよばれる一つの文芸の一|範疇《はんちゅう》がある。然も「家庭小説」の意味は、我国と外国とは必ずしも同じではないのである。外国では、立派に「家庭小説」が存在する。「黒い馬」「家なき児」「クオレ」「三家庭」なぞは、この範疇に属するものである。
 処が、我国では、新聞小説が「家庭小説」と呼ばれていた。新聞小説でさえあれば、たとえそれが恋愛小説であろうが何であろうが、「家庭小説」だと考えられて来た。だから
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