我国では、「家庭小説」が一定の概念を有していたのではなかった。これはあらためられねばならぬ。だから、これを外国にならって正しく認識するならば一切の「家庭小説」は将来に於て、「少年、少女小説」として最も要求せられるべきものだと思う。即ち、今まで、「家庭小説」とよばれていた種類のもの、ヂケンスの小説とか、その他前に挙げたものは、「少年、少女小説」の中に合流さるべきものである。その中には、「ユーモア小説」も「冒険小説」「探偵小説」も、一切の大人の小説の種類が含まれ、然もそれが少年、少女の読物として書かるべきことが要求されるのである。
 只、今日残された問題は、それら、「家庭小説」をも含む一切の「少年、少女文学」が、十九世紀以後傑作を出さないことである。之は何を意味するのであろうか。一は、時代の進歩、変遷が亦少年少女の上にも支配し、彼らの思想情操を激変させつつあるからである。現在の少年少女は、決して一世紀昔の少年少女の感情、思想を持っていない。より科学的であり、より刺戟をもとめ、より享楽的な欲求を持っている。彼らは新らしい何物かを求める。これは、都会の少年、少女に於て愈々然りである。処が、第二に彼らに何らかの方向を与えるべき文学者自身が、すでにこの激しい世相の変転の中に彷徨している。彼らは新らしい正しい道徳を与えることが出来ない。資本主義の爛熟とともに世間はますます無方向に、無道徳に乱れいきつつある。すべての文学よりも以上に、今、「少年、少女文学」は危機に瀕《ひん》していることを考えなければならない。これらは将来の文学の一つの重大な使命である。文学者は先ず自らを正しく認識しなおさねばならない。自らの位置をはっきり知らねばならない。その方向に就いては、私は「科学小説」のところで詳しく述べて置いた。
 何れにもせよ、未曾有の過渡時代に当って、すべての文学と同じく、その一環として、「少年少女小説」も亦、今一大転換期に立っていることは考えねばならぬ事実である。

  第九章 ユーモア小説

「ユーモア小説」の要求は、何よりも読書は娯楽である、という見地から出て来るものである。こうした見地は、近来いよいよ激しくなって来た。それ以外、何の理由もない。人生をうがっているとか、諷刺的であるとか等の何らかの人生的意味をもたす必要はないのである。大衆小説が興味だけで存在し得るのと同じ理由である
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