を聞き、且つ書くべき設備をしても、デパートの恥ではない、と云いたいのである。
私は、しばしば、銀座の店員の店員らしくないことを、雑誌に書いた。実際、彼等は店員としての資格を、半分も備えていない。私は、商業上に於ける大阪商人という名称が、一種の軽蔑と共に、恐れをもって見られているように女給が、東京風のよりも、エロであるように、大阪の店員は、東京よりも、大阪独特らしく、もっと自分の商売に、熱心でありたいと思うのである。仮令《たと》えばかかる場合「すみませんが、御面倒でも、下まで」と云えば、私は、下へ行かんでも無い。又「只今、五円のは品切れになりまして、明日なら出来ます」と、最初に云えば私は「じゃ三円のを二つ」と、云ったかも知れない。これが、商売のこつである。
私は、店員に、馬鹿丁寧な挨拶をしろ、というのでは無い。少くも、一流の店の店員としては、第一に、自分の担当する品物に対する知識をもっている事。第二、既知、未知の客を区別しない事。第三に適当に品物をすすめる事。第四に、客の好みを察しる事――その外、言葉、姿――いろいろとあろうが――それを具備している店員は、どこの都市でも、極めて少い。
私は、外人の店、支那人の店、遠くは、ハルピン(余り遠く無いが)で、買物をしたが、彼等は、悉く日本人に較べて、品物の説明を十分にする。日本の店員の如く、品物を前に出して、黙って、突立ってはいない。手にとれば、必ず説明し、置けば、次のを渡して又説明する。これが、いかに、客と、品物と、その店と、彼とを結びつけるか私は、殆ど、購買力の大半は、客が、その品物への知識と、輿味とをもつ事によって、成立つのだと、信じている。
ある店は、私が、説明を求めても「さあ」と云って、返事ができないし、ある店は質問すると、面倒臭そうに「存じません」と、答える。私は、そういう店で、二度と買わない。私は、よく、高島屋の百選会とか、三越の三彩会とかへ行くが、新聞の流行記事に、今年の流行は何色で、模様は有職風の現代化などと宣伝しているが、店員は、傲然とした貴婦人(大抵おかめが多い)に、御叩頭《おじぎ》をするばかりで、私などの横は、風を切って行くし、時に、一品を買って「この色は、化学染料でなく草木染で出すといいが」とでも、批判すると、もう、返事ができない。
謂いかえると、知識も、熱も、忠実さも無い。だから、私は、そ
前へ
次へ
全35ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング