衛門町の福田屋へよく行ったが、十時ごろから一時ごろまで、三代鶴を呼んで(どうも、この人に惚れていたらしいが、はっきりした記憶が無い)うどんを食べて、矢張り十円であった。
それで、時々、この三つの内の何の十円が、一番安い、かを考えてみると、何うも、酒場よりも、お茶屋の方が、私にはいい。人々は、酒場は、沢山の女が集まってくるから、というが私の趣味だと女は惚れた一人以外には、居ない方がいい(チップの関係もある)。
川口松太郎は、十人口説いて、一人当れば一割の配当だという主張をするし、菊池寛は、一言云って、嫌だという奴は、二度と口を利かぬから、俺の獲得率は、百パーセントだというが、人各々である。
私は、自分の好きな人を前にして、只眺めているばかりであるから(菊池寛は直木は黙っていて女を落とそうとする。だから人の二十倍も、時と金がかかるというが、私の恋は、いつも神聖なのである)どうも、お茶屋で差向いの方がいい。
そして、同じお茶屋の十円で、新橋と、大阪とどっちがいいかと云えば、断然大阪がいい。東京は十二時になると、不見転《みずてん》以外は帰ってしまうが、大阪は、時として夜が更けると、雑魚寝があるし、席貸へ行って夜明かしもするし、――つまり、飽きる所まで、行きつくすことができる(尤も、そうなると十円では済まん)。この点は、酒場や、東京の真似のできない所で、上方遊里の忘れられない味である。
私は、東京へ行った大阪の酒場が、エロであるという評をきくが、ああ云った取持ちがエロなら、エロは忌嫌すべきものであるし、大阪の女性を軽蔑こそすれ、称める気にはなれない。無教養の故に、下らぬ事を喋って、慣々しくするだけの女を、喜ぶ位、又、男自身の価値を下げることも無い(私の気位の高さ、何んなもんや)。
尤も、女と遊ぶ時には、男の価値を、少し下げぬと面白くないが、それは、差向いの時に限ったもので、そういう時には、私も、可成りだらしが無くなって、チューインガムの引っ張りっこをしないでもない(これは、仮定や)。酒場では困る。友人の、浅間《あさま》しさを見ていると、下手なダンスを、いい齢をして、背の低いダンサアと踊っているのを見ているように、憂欝になってくる。
東京風の酒場では、この感じがやや少いが、大阪風は、かなわん。私の趣味、又は、私の文化性に合わないのであろうが、私の望むエロチックは、
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