もう少し教養が、気取りがあってほしい。流し目一つさえ、満足に表現し得ないエロなどというものが、のさばる事は、男女お互に恥辱である。インドの「愛経」によると、脣《くちびる》のキッスのみで八種あるが、少くもウェートレスは、それ位のことを心得ていて貰いたい。Aの時には第一種のキッスで、草履《ぞうり》か靴を軽く踏むとか、Bの時には第二種で、脚を押しつけるとか、Cの時には第三種で、手を廻して首を抱くとか、――それ位の抱擁の区別は、ちゃんとしてもらいたい(この抱擁の形式は、罪のないものから深刻を極めるものに至るまで、約二十種ある。女の方には、特別に教授してもいい。一種五円位で、高うおまっしゃろか)。
露骨なるエロよ、一九三〇年と共に、消えてくれ。
美術館と動物園
私は、もっと歩かなくてはならぬが、サー、理窟を云いすぎた。――そうだ。私は、天王寺へ参詣してから、理窟ばかり云っているのだ。
産湯稲荷の、抜け穴は、何うしたかしら? 私の少年時代、その穴は、真田の抜け穴だと信じて、度々入ったものである。七八間も行くと、行きづまりになっていて、一寸、失望したが、この頃は、柵が設けてある。あの前へ「真田の抜け穴」と、札を建てるといいと思うが、――それから、もう一つ、この辺には、池の近くから、人骨が転がり出したのを憶えている。小橋の墓地といえば、私等上町の悪童には、なつかしい思い出の所である。
「しゃれこべ、出るやろか」「そら、首が出る位やさかい、掘ったら出てくる」と、私達は、棒と、竹とで、墓地――石碑一つない墓地を掘っていて、怒鳴られたことがあった。
三光神社から、高津の宮跡へかけて、大阪冬の陣の激戦地であった。私ら、少年時代には、未だ、その大阪陣の記憶が、人首だの、抜け穴だので結び付いていて、真田山で幸村を回顧したものであるが、もう、今日のこの辺の少年は何も感じないであろうし、父兄も、町会も、感じさせるような木標さえ建てていないであろう。
どんどろ大師は、何うしたか? 義太夫に残っているから、近くの人々は知っているであろうが、阿波の十郎兵衛の事蹟が残っていて、真田幸村終焉の地に、一本の標杭さえ無く、そして、天守閣を建てて――多分、天守閣は見せ物にして金がとれるが、幸村の碑では金儲けにならん、というのであろうか。
名古屋の近くに、コンクリートの大仏が建った。毎日、賽銭が
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