こんなにまで不経済になってきている)と、いうよりもハンドバッグの註文に応じる店が心斎橋には無い。
こういうことを云っていると、いかにも私はハイカラらしいが、心斎橋を歩いていていつも羨ましいのは、昆布屋である。昆布の価値は、東京人には判らない。チューインガムという阿呆なものより、昆布のヨードの方がどんなにいいか――私の、少年時代、まだ、大阪の橋々の上には、夏の夜店が許されていた。
その時分の、枇杷《びわ》葉湯、甘酒――それらは昆布と共に、もう一度、民間の飲み物になってもいい。カルピスなんかよりも、枇杷葉湯は、確に、薬効的であり、甘酒はずっと優れた栄養分を含んでいる。私は、飾窓の装飾を弁えていると同時に、甘酒と、枇杷葉湯の価値も知っている。昆布茶のうまさも知っている。つまり、古今東西の価値を認め温故知新の人間である。
だから、相当に公平であるが、昆布屋と、飴屋と、鮓《すし》屋の外、心斎橋から、道頓堀へかけて、何も感心するものは無い(然し、大阪の女性は、こんな物に感心してはいけない。全く食べ物ばかりに感心することになって、恋人に愛想をつかされるかもしれぬから――)。
と、いうよりも、実によく、大阪の女は食べた。私の子供時分の芝居に於て、就中、旧文楽座に於て――そして、昆布をしがんだ口臭は、決してシックなものではない。何うもキッス以前の匂いだ。キネマで、チューインガムの引っ張り合は、恋人同士によくあるが(私は、キネマを三年位見たことはないが、多分あるだろうとおもう。なかったら――やってみるがいい)、昆布は、少し粘々《ねばねば》しすぎる。とにかく、昆布は、いくらか、大阪人の健康を助けているだろう。私の母なんかも、昆布をしゃぶるには人後に落ちた事がない。少ししゃぶりすぎたので、その子の頭が少し早く禿げるのだろう。ヨードは髪毛を増すというのが、何うして、私だけは、禿げるのだろう?
食べ物
大阪の料理は、殆ど東京を征服した。東京料理の面影を伝えているのは、八百善位のものだろう。話に聞くと、大阪の板前は既に百人近く、東京へ行ったというからえらいものである(大抵この位で料理論などは終っていいのだが、どうも私の知識は沢山あるのでもう少し話をしたい)。
その大阪の料理人も所謂、料理通、食通がる人々も「大阪料理は成るべく生のままの味を食わすんで――」と、自慢らしく云って「
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