らざる所以《ゆえん》だ。

  心斎橋

 私は、大阪へくると、実によく心斎橋を歩く。或は心斎橋以外は歩かない、とも云っていい。だからと云って、心斎橋は決して好きではない。第一に、決して、美人に出逢ったことが無い(こういうと少し女好きらしいが、それ程でも無い。中位であろう)。
 心斎橋も梅田と同じように、田舎町であるにすぎない。ありったけの時計を、モスリンを、ショールを、ごちゃごちゃに陳《なら》べて、電燈を眩しくつけているだけである。
 飾窓を、飾窓らしく意匠を凝らしている店は、何軒あるだろう。安堂寺町角の天賞堂(その外の貴金属商の俗悪さよ)、大丸、しかん香が既に、ごたごたしすぎていて、一見して、通行人の注意を惹くという、飾窓本来の意味を弁えていない。表に面しているから、その中へ陳《なら》べておいたら見るだろう。買いたい奴なら、覗いて選るだろう――それ以上の注意をしていない。だから、一枚千二百円の、大きい硝子《ガラス》窓など、心斎橋商人の吝《しみ》ったれには、恐らく、その価値が判るまい。飾窓の意義と、窓硝子の価値を知らないで、近代都市の小売商になるなど、田舎であればこそである。デパートに押されるのは当然で、宣伝もしなければ、陳列法の善悪も判らなくて、商売が繁昌したら、アメリカ商人は、とっくに、破産しているだろう。
 しかん香から南には一軒も無い。八幡筋を西へ曲ると、古本屋の荒木が、飾窓を、窓らしく扱っている。小大丸は、銀座の越後屋と同じ道を踏むのでは無いかしら? 品物に珍らしいのが無くなってきた。
 それで私は、大丸と、雑誌屋と、荒木と、丹平と、それだけ以外で決して買物をした事はないが、又実際、心斎橋で白狐の襟巻も、気の利いたウォッチリングも、マイ・ミキスチュアも、無いのだから仕方がない。確に、恋人をもつなら大阪の方が経済的である。三十八円の樺太《からふと》狐でも狐で、八十円のカムチャツカ狐も狐なら、二百円の白狐でも狐である。
 東京の女は、少し気が利いていると(或は、生意気だと)、ハンドバッグ一つ買うにも、鳥居屋へ行って、裂地から金具まで註文をするが、大阪の女は、こういうことを知らないだろう(大阪の男達よ喜ぶがいい。私の友人は最近鳥居屋へ恋人と同行して予算の三倍を費した。そして実はその二倍半の金しか無かったので、そっと私へ救済してくれと電話をかけてきた。東京の女は
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