して普通のロンドンの路面なら階段の一足でちょうど非常梯子が二階の窓にとどくように、ドアの前に行《ゆ》かれるのだった。ヴァランタンは立ち止って、その黄と白の窓かけの前で煙草をふかしながら、それらのことについて永い間考えていた。
 奇蹟に関して、一番信じがたいことは、それが起ったというそのことである。空にある雲も寄り合って、睨《にら》めている人の眼の形にもなるものだ。一株の木も、たよりない旅に見る風景の中《うち》では、まるでわざわざつくった疑問符のように立つものだ。私自身この数日の中《うち》にこれらのことを実見した。ネルソンは勝利の刹那に死ぬのである。ウィリアムという男が、ウィリアムソンという男を、あやまって殺しても、それは謀殺(母と共謀で子を殺す。ウィリアムソンのソンは子という意味すなわちウィリアムの子。ここはそれゆえ洒落になっている。訳者註)の一種に思えるだろう。一言にして言えば、人生には奇怪な偶然の一致があり、それをつまらない人間は常に見落しているのだ。ポーの逆説の中にたくみに説明されているように、智慧は予見出来ないものまでも勘定に入れておくものなのだ。
 アリスティ・ヴァランタンは底の知れないフランス人であった。そしてフランス人の智能と来ては、また特別なもので、実際まざりけのないものなのだ。彼は『思考する機械』ではなかった。なぜなら、その言葉は近代宿命論の、また唯物論の無思慮な適用であるからだ。機械はどこまで行っても機械にちがいない。それは思考することは出来ないのだ。だが彼は思考する人間だ、しかも同時に平凡な人間だ。だから彼の驚くべき成功は、うわべはほんのあてずっぽうのように見えても、実はフランス人の明晰な、しかし平凡な思想によって、こつこつと論理を積み重ねて成ったものであった。フランス人は逆説を用いて世間を恐愕《きょうがく》はさせない。彼等は真理を明るみに出すことによって世間を恐嘆せしめるのだ。彼等は――フランス革命の時におけるように、――真理を持ち出す。だが、ヴァランタンは理性を正しく知っているために、理性の限界をも理解しているのだ。発動機について何も知らない人に限って、揮発油なしに発動機を動かすことを論ずるのだ。また、理性について何も知らない人に限って、強力な、何物にも負けない第一原理なしに、理性について論ずるのだ。今の場合、彼はこの強力な第一原理を持っていなかった。フランボーは、ハーウィッチで見失われてしまった。そしてもし彼が既にロンドンに巣くったとしたら、彼はウィンブルドンの公有地に住む丈の高い無宿者から、メトロポール・ホテルにいる丈の高い宴会の主人公に至るまで、あらゆる人間になりすましているに違いない。こうした盲滅法な状態において、ヴァランタンは、彼一流の目のつけどころと、またその捜査法とを持つのであった。
 こういう事件にぶつかると、彼は思い設けぬものを便りとするのであった。こういう場合、彼は、合理の道順をたどれなくなると、不合理の間道を、沈着にまた用心深くたどるのであった。普通なら真先きに行《ゆ》くべき、銀行、警察、密会所等へ這入りこむかわりに、彼はちゃんと順序を立てて、見当違いとも覚しい場所へ行《ゆ》くのであった。空家と見ると片っぱじからさぐってみたり、袋町という袋町に踏み込んだり、ゴミゴミした小路《こみち》をうかがったり、結局とんでもないところに出てしまう曲り路に這入りこんだりした。彼はこの狂気《きちがい》染みた方法をまったく論理的に弁護した。彼の言うところによると、もし我々が何等かの手掛りを持つならばそれは最も悪い道にいるのである。もし何等の手掛りをも持っていないならば、それは最もよい道にいるのだ。その訳は、もしどこかに、追跡者の眼につく様なおかしなものがあるとすれば、それは追跡される者の目についたはずだからである。人はどこからか始めない訳には行《ゆ》かない。だから人が終ったところから初めれば、それだけで大へん有利なのだ。店に上る正面の高い石段の有様や、料理屋のひっそりとした、古風な様子が、何とはなしに、探偵の稀代のロマンチックな想像をかりたて、彼をして何か仕事をはじめさせるようにしたのであった。探偵は階段を上って行った。そして窓のかたえに坐って、ミルク抜きのコーヒーを一杯註文した。
 朝も、もう半ばを過ぎていたのに、彼はまだ朝食をしたためていなかった。その辺のテーブルにちらかった朝食のあとを見ると、さすがの彼も空腹が身にしみた。で、さらに「落し卵」を註文して、コーヒーに白い砂糖を面白そうに入れながら、さてフランボーのことを一わたり考えたのである。彼はフランボーがある時は爪取り鋏で、あるときは火事にまぎれ、ある時は切手のない手紙に不足料金を払ってる間《ま》に、ある時はまたこの地球に衝突するという彗星を
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