見る望遠鏡に人を集めて、遁走したそのやり方を考えていた。彼は自分の探偵的頭脳が、この犯人の頭脳に優るとも劣るとは考えなかった。がそれにしても自分の立場がひどく不利なことを自覚した。「犯人ってやつは独創的な芸術家だ。探偵はただ批評家であるのみだ」彼は苦笑しながら独語《ひとりご》ちた。彼はゆるゆると、彼のコーヒー茶碗を口につけ、今度は急にそれをおろした。彼は思わずも食塩を入れていたのだった。
 彼はオヤッと思ってその入物を注意した。それはたしかに砂糖入れに相違なかった。お酒が徳利に入っているのがきまり切っているように、砂糖は砂糖入れにあるのがあたりまえだ。彼はほかに砂糖入れらしいものがあるかどうかとさがしてみた。他には二つの食塩入れがあるきりだった。しかもそれには砂糖がはいっていた。食塩入れに砂糖を、砂糖入れに食塩を入れるような、風変りな趣味が、もっと他にもありはしないかと彼は料理屋の中を見まわした。が、ただ一方の白壁に何か黒い液体がはねかかって可笑しなしみをつくっている外には変ったところはなかった。彼はベルを鳴らして給仕を呼んだ。
 まだ朝のうちの事とて、髪もくしゃくしゃにし、眠たそうな眼つきをした給仕が急いで出て来た。探偵は(もともとちょっとした冗談のきらいでない彼は)まあこの砂糖をなめてみろ。これが、この店の売り出している特色なのかとたずねた。給仕はその結果|睡気《ねむけ》もさめて、口をパックリあけてただ驚くばかりだった。
「君の店じゃあ、お客様に毎朝こんな念入りな冗談をやるのかい?」とヴァランタンは訊ねた。「食塩と砂糖とを入換えておくなんて、まあどんなものかね?」
 給仕も、この真綿で首をしめるような皮肉がはっきりわかったので、どもりどもり弁解し始めた。そして、「そんな心持ちはちょっともございません、それはとんでもない間違いでございます」と言うのだった。
 彼は砂糖入れを取り上げてあらため、また食塩入れもあらためた。彼はだんだん困惑と不可解の表情をあらわし始めた。遂にたまりかねて軽い会釈をすると、あたふたと奥へ馳《か》けて行った。そして、主人を伴ってかえって来た。主人も、二つの入れ物をかわるがわるあらためたが、ひどく困惑した様子だった。
 突然給仕が一生懸命に何か言い出した。
「ああそうです、わかりました」と彼は熱心におどおどとつけ加えた。「あの二人連れの坊さんですよ」
「何だって、二人連れの坊さんだって?」
「ええそうです」と給仕は言った。「あの壁にスープをぶっかけた」
「壁にスープをぶっかけたんだって?」とヴァランタンがくり返した。こいつは妙な話しになったわいと思いながら。
「そうです。そうです」と彼はやや亢奮《こうふん》して白い壁紙を張りつめた上についている黒い飛沫《ひまつ》を指さしながら、「あの壁にぶっかけたんですよ」と言った。
 ヴァランタンは改めて、主人の説明をもとめるように彼を見た。主人はくわしく話しはじめた。
「その通りでございます。もっとも私には、これが砂糖と食塩との入れ違いに、どんな関係があるかわかりませんですが。今朝ほど早く二人連れの坊さんが、まだ店もあけるかあけない頃、お見えになりまして、スープを召し上がって行ったのです。二人とも大へんもの柔かな相当地位もおありの方のようでした。一人の方《ほう》が勘定をして、さっさと出て行《ゆ》くと、もう一人の方《かた》は、持物があるので、いつまでもまごまごしていられましたが、やっとのことで出ておいでになりました。その時のろい手つきで、まだやっと半分しか飲んでいないコーヒー茶碗をとりあげて、コーヒーをあの壁にぶっかけたのでございます。私は奥に居りましたし、店のものもあちらに居りましたので、出て来た時には、壁はもうあの通りで、店には誰も居りませんでした。大した損害でもございませんが、いまいましいので、表へ出てふんづかまえようといたしましたが、二人とも大へん足の早い奴等で、もう向うの角を曲ってカーステヤース通りに這入って行っていることだけわかりました」
 探偵は立ち上って、帽子をかぶり、ステッキを握りしめた。彼は自分をとりまく闇の中に、どうやら一道の光明を認めた。だがその光明こそ、まったく怪しげなものだった。勘定を済ますと、彼はガラス戸を邪けんにしめて、向うの通りに飛ぶように這入って行った。
 幸いなことに、彼はこうした亢奮した瞬間にも、なおかつ冷静と敏活とを彼の両眼にたたえていた。一つの店の前を過ぎたとき、何やらパット彼の頭をかすめたものがあった。彼は、踵をかえすとそれに注意した。その店は繁昌しているらしい八百屋兼果物屋で、大道に並べられた品物の上には、果物の名と売値を記した札とがたくさん立ててあった。その中で、密柑《みかん》と栗の二つの山が一番人目につきやすかったが
前へ 次へ
全11ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング