情していても、人の心は計られんのに――そして、その大作が、村の人へ、よせよせ、生殺は天にある、越中守のように厳重警固していても、討たれる時には討たれる、こうしても、討てん時には、討てん、のう、そこのお役人、と笑った時には、腹の底から、冷たいものが湧いてきたが――俺は、ほうほうの体《てい》で、宿を出たが――俺には、到底、あいつは討てぬ、といって、このまま、のめのめと江戸へは立戻れぬ。江戸では、越中守を討ったから、また、大評判であろうが、その中へ、戻ることは、俺が恥を掻きに戻るようなものだ。
 右源太は、行手からくる旅人の足、追抜いて行く馬の脚を、夢のように感じながら
(所で、旅銀だ)
 と、腹巻の上から、手を当ててみた。
(未だ、大丈夫らしいが、然し、十分ともいえぬ。こいつが無くなっても、大作が討取れなかったら?)
 右源太は、この辺から奥へ行くと、だんだん大作への人気が高くなって行くのを知っていたが、江戸へ戻ることは、流石《さすが》に出来なかった。
(とにかく、一服して、腹ごしらえをしてからだ)
 編笠から眺めると、土堤沿いの、大きい木蔭に、簾《すだれ》を立てて茶店があった。樹の背後の土堤の草の中に、馬が二匹、草を食《は》んでいた。
(飯を食ってだ)
 と、思って、右源太は、茶店へ急いだ。

    十四

 鰊の焼いたのと豆腐とで飯を食べていると
「八文かね――置くよ」
 と、隅で元気のいい声がした。右源太は一杯目の飯を食ってすぐ
「代り」
 と、茶碗を突出した時
「どっこいしょ」
 と、右源太の後方で、懸声して
「お武家様、少々」
 と、丁寧にいった。右源太は、大きく開いた右脚を、引込めて、振向くと、すぐ、顔を反向《そむ》けた。
(大作だ――いいや、よく似ているが違う。鼻が違う)
 大作を恐れる心が、右源太を、警戒させ、狼狽《ろうばい》させたが、ちがうと思うと、すぐ、振向いて、その男の顔を眺めた。大作と同じ頃の齢で、ただ少し、鼻が低い外、似た男であった。木刀を一本差して、南部家中の小者らしく、挟箱《はさみばこ》を肩にしていた[#「していた」は底本では「してゐた」]。
「御免なされ」
 右源太の前を、小腰をかがめて通って
「さよなら」
 と、竈《かまど》の前の、爺に声をかけた。横顔も、どこか大作に似ている。
「さよなら、有難うよ」
「御馳走様だ」
 小者は、急いで出て行った。
(そうだ)
 右源太は、空腹を忘れてしまった。
「旦那様」
 婆の差出した盆の上の飯を手に取ったが、すぐ、側へおいて
「勘定」
 と叫んだ。
「御飯を、旦那様」
「いらん、早く勘定を」
「何が、お気に障《さわ》りましたで御座いましょうか――」
 爺が、そういいながら、いくつも穴の並んだ、土竈の角を廻って出てきた。
「いいや、いいや、一寸、急ぎの用を思い出したゆえ」
「それなら――ああ、心配致しました。この婆め、頓間《とんま》で、いつも――」
「おやおやおや、自分のもうろくを棚へ上げて、人を頓間などと――」
「勘定を早くと申すに」
「はい、はい」
 爺は、周章《あわ》てて、引込んだが
「十二文で御座ります。御粗末様で」
 右源太は、腰の巾着から小銭を出して、ばらばら腰掛けへ落して、編笠を掴むと、小走りに出てしまった。

    十五

(悪いこと――そうだ、悪いことにちがいない、然し、止むを得ないことだ。俺を助けるのは、彼奴《かやつ》を斬るより外に道がないのだ――全く、よく似ている。彼奴を斬って、首にし、これなら、誰でも、大作の首にちがいない、というだろう――そして、よし、大作がまた現われたなら?――いいや、越中守を殺した大作が、のこのこ現れよう道理がない。いくら、大胆不敵の奴でも、命は惜しいにちがいない。が、もし、現れたなら?――)
 右源太は、行手に、小さく、黒い挟箱を担いで行く小者を、じっと見つめながら、刀を押えて、小走りに、急いでいた。
(現れたなら?――俺は、大作をよくは知らぬが、大作と信じて討取ったのだ、といえばいい。あれ位似ておれば、間違うのも、無理は無いと、誰でも思うだろう。だが――何うして討ったかと聞かれたら?――それは、尋常では討てんから、計《はかりごと》にかけた、と、いえばいい、そうだっ)
 右源太は、微笑して、後方を振向いた。人影が無かった。
(恰度《ちょうど》いい場所だ。村にも遠いし、人もいないし――彼奴は可哀そうだが――今、もし、彼奴を討って江戸へ戻らなかったら、俺が人から可哀そうがられるだけだ。人から、可哀そうに思われたって、俺には、何んにもなりゃしない。彼奴か、俺か、この世の中に、どっちか、可哀そうな奴が一つできるようになっているのだ)
 右源太は、足踏みして、草鞋の紐の固いのを試し、鯉口を切って、襷《たすき》を取出すと、片手と口とで、素早く、袖を絞り上げた。そして小者の歩き振りを見定めて、編笠を脱いだ。そして、笠で、襷をかくしながら、草の上を音も無く、迫って行った。
[#ここから3字下げ]
南部の山は、黄金《こがね》山
南部の河は、黄金河
[#ここで字下げ終わり]
 と、小者は、口吟みつつ、歩いていた。
[#ここから3字下げ]
鮭の鱗は、金光り
家老の頭、銅光り
女房の肌《はだえ》は、銀光り
そのまた
やっこらせ
女房の肌を抱く時にゃあ
[#ここで字下げ終わり]
(肩?――頸?)
 つつっと、小刻みに寄った右源太、足を構えて、踏止まると
「ええいっ」
 大きく、踏出す右脚と共に、十分に延した刀、十分の気合。
「ああっ」
 と、叫んで、挟箱を担いだまま、二間余り走ると、両脚を揃えて、木のように、倒れてしまった。右源太は刀を前へかくして、四方を眺めた。
(上首尾に行った)
 心臓の烈しく打つのを押えながら、心の中で
(人の来ぬよう)
 と、祈りながら、注意深く、小者の倒れている所へ近づいた。

    十六

 相馬大作は、いつもの通り、人を睨みつけるような、関良輔の眼を、じっと見つめながら
「津軽は、老中共に、袖の下をつかましているな」
「としか考えられませぬ。参覲交代の時に、届けもなく、道順を変更して、大砲の先を逃れましただけでも、咎めのあるべき筈のところ――」
「よし、津軽に対して、そういう偏頗《へんぱ》の処置を取るなら、わしは江戸へもどって、相馬大作の名乗を上げてやろう」
「先生、それは――」
「いいや」
 大作ははげしく、首を振った。蒼白い顔色であるが、頬骨は高く、額の広い、面擦れのできた大作は、こういうと、何人《なんぴと》も動かしがたい決心の様が、眼にも、額にも、脣《くちびる》にも、現れたようであった。
「わしを召捕るなら召捕るがいい。津軽に袖の下を掴まされたのは、老中の一人か二人、または三四人のかかりの者位であろうが、奉行所まで、真逆、動かされてはいまい。わしを召捕って、訊問するとなれば、南北両奉行寺社奉行立会いの上であろうが、その面前でわしのしたことを、包みなく披露してやろう。さすれば、罪は津軽のみでなく、老中へまで及んで、現時の如き、腐り果てた支配向きは、いささかなりとも直ることもあろう」
「然し――」
「奉行が老中に、圧迫されるというのであろう」
「はい」
「上下共に、法を曲げて直を直とせん世ならば、人生生きていて何の甲斐がある。上下、人民までが、奢侈《しゃし》にのみ走り、遊惰に傾き、大義大道を忘れている世に、碌々《ろくろく》、生を貪っていて、何んの五十年ぞ。その時には、奉行の前で、いささか、心中の気を吐いて、倒れるだけじゃ。丈夫の事を為す。必ずしも事の成否を問わん。ただ、心の命ずるがままに行って、倒れて後やむ。わしは、江戸へ戻るぞ。そして兵学の道場を開いて、天下に向うのだ。廃《すた》れたる世なりと雖《いえど》も、一人や、二人の義人はあろう。それでいい、一人もいなくとも、平山先生が在《おわ》そう」
「私もいささか――」
「お身も時世に逆っているが、誠心は、いつの世にか知己のあるものじゃ。明日、早朝、江戸へ立とう」
 大作は、薄暗い燭台の灯を、半顔に受けて、じっと、天井を睨んでいた。
「越中守を討取っても、改易にならんのか」
「檜山横領を、黙認する位、当然で御座りますな」
「この噂が、世上へ拡まった時、人民は、何う思うか? 私欲のために、天下の法を曲げて徳川の代も末遠くないぞ。良輔」
「はい」
「臥《ね》るがよい」
 大作は、腕組したまま、いつものように端坐して、眼を閉じた。

    十七

「然し先生」
 良輔は、声をかけたが、大作、黙ったままであった。暫くしてから、もう一度
「手前当代の津軽を討とうと存じますが」
 大作は、眼を閉じたまま
「討てるか」
「一人を討っただけで、捕われるのも残念に思いますから、先生が、お手を下されないなら、手前討とうと存じます」
「討てるか」
「短銃で、討てようと思います」
「それもいい。相馬大作が、二人現れてはおもしろかろう」
 大作は、眼を開いて微笑した。
「然し、短銃は、己を全うして、敵を討とうとする得物《えもの》じゃ。凡そ、人を討つほどの者は、敵のみ討って、己を全うしようと考えてはいかん。己も死ぬ、その代りに、敵も斃《たお》す。この覚悟をせんといかん。十死一生、これが、剣道の奥儀じゃ」
「よく心得ております」
「場所は?」
「新らしい橋のあたり」
「よかろう」
「甘酒屋にでも姿を変えまして」
「それもよい」
「十分の距離にて狙撃すれば、逃がすことはあるまいと、心得ます」
「よし、わしは、見ていよう。二人の壮士が現れたことが、何ういう風に、この遊惰な世間へ響くか――やってみるがよい」
「それでは――先生、お名前を、相馬大作のお名前を使いますことを許して頂けますか」
「よいとも」
「有難う存じます」
「短銃?」
「買求めます」
「わしのを使うがいい」
「いえ――」
「精巧でないといかん。相馬大作が、武器も選ばず、旧式のを使っていたと噂されては、心外だ。二十間ほどの着弾距離があるが、十間なら、十分に、打抜けよう。江戸へ戻ってから手渡そう」
「万々、仕損じました節は、お名を汚しませぬ。また、首尾よく仕遂げましたなら、天下の白洲《しらす》にて、いささか学びました、大義大道を説くことに致します」
「良輔」
 大作は、和やかな眼で、眺めた。
「はい」
「わしは、十七八年、平山先生について学んで、ようよう心らしい心になったが、お身は、三年にしかならぬ。よく、その決心がついたの」
「恐入ります」
「血気だけではできんことだ」
「決して、逸《はや》っているのでは御座りません」
「逸っていてもよい。お身が、相馬大作といっても、大作はわし一人しか無い。逸った大作、逸らぬ大作、何《いず》れにしても、世人に与えるものが同じならよい。先生は、お喜びになるであろう」
 鶏が鳴いた。
「夜鳴している」
 と、大作が呟いた時、寺の鐘が、時刻を知らせた。
「寝よう」
 と、いって、床へ入った大作は、すぐ寝入ってしまったらしく、静かな寝息が聞えてきた。良輔は、興奮に冴えた眼を、闇の中で、開きながら
(眠るのと、眠られぬのと、これが心の到る、到らんの差だ)
 そう思いながら、眠ろうとしていると、隣りの部屋で、低く
「南無阿弥陀仏」
 と、繰返している男がいた。
(あの男――あの侍、何処かで、見たことのありそうな――)
 と、良輔は思ったが、思い出せぬ内に、寝入ってしまった。

    十八

 南町奉行附与力、曾川甚八が、足早に出てきて
「大作を討取ったとは、ほんとか、入れ、入るがよい」
 と、立ったままでいって、褥《しとね》の上へ坐った。右源太は、縁側に、平伏しながら
「忝のう存じますが、旅着のまま、むさ苦しゅう御座りますゆえ、これにて――」
「首をもって戻ったか?」
「はっ、恐れながら」
 右源太は、喘《あえ》いでくる心臓、呼吸を押えて、酒浸しの布にくるんだ上を、油紙で巻いた首を、布の中から取出した。臭い臭いがした。曾川は眉を歪めながら、右源太の手許を見ていた。曾川の従者が、左右から
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