「何にね、その村から、近道しようと、畦《あぜ》を出てきたら、こらっと、やられて、猫の子みたいに、首筋を掴まれて――何うも、相馬大作も、いろいろたたりをしますわい。しかし、川筋の取締りが、大変で御座りますよ。津軽領には、二百人から出張ってで御座りますな。ずらっと、堤の上に――」
 女狩右源太は、人々の話を聞いていたが
「そうも、恐ろしいかのう」
 と、呟いた。人々は、一斉に、右源太を見て
「ええ、檜山領の百姓には、生神様のように思われて――」
「大砲を何しろ作って」
「見たか、その大砲を」
「いいえ」
「わしは見た。紙じゃ」
「紙? 張りこの?」
「そうじゃ。余り、びくびくすると、張りこが、鉄《かね》に見える。世間が泰平じゃと、話が、面白|可笑《おか》しく尾に鰭をつけていかん。大作など、人気とりの山師にすぎん」
 人々は、黙ってしまった。
「出るな、出るな」
 幾人も、袴をくくり上げて、草鞋履《わらじば》きで通って行った。行列が、近づいてくるのであった。

    八

 人々は、渡し場の、草の中へ、膝と、手とを突いていた。舳《へさき》にも、艫《とも》にも、船頭が、川の方を向いて、両手を突いていた。船中の侍は、駕の側、前後に、膝をついていた。駕の中に、垂れをあげた津軽越中守が、腕組して、水を眺めていた。
 川下にも、川上にも、小舟の中にも、侍が立って、川面、両岸を、警戒していた。向う岸の、津軽領には、人々が、草の上へ黒々と立っていたし、馬が、槍が、人々の頭の上で動いたり、光ったりしていた。
「出ます」
 杭を押えていた侍が、こう叫ぶと共に、船頭が立上って、纜《ともづな》を解いた。船は、静かに、舳を川の方へ押し出しかけて、四人の船頭は、肩へ竿を当てて、力を込めた。
 川水は、少し濁っていて、杭には、草が、藁が引っかかっている。岸の凹みには、木切れ、竹、下駄などが、浮いていた。
「おーい」
「おーい」
 船頭は、合図をして、竿を外して、艪《ろ》に代えた。船は、ぴたぴた水音をさせつつ、静かに、中流へ出た。
「ああ何か」
 と、岸の一人が、呟いた。船べり近くの水面へ、黒い影が浮んできたのが、見えたからであった。
「何?」
 一人が、振向いた。
「あれ」
 と、指差すか、差さぬかに、水がざっと泡立ち裂けると、白鉢巻をした顔が――手が、足が――
「曲者っ」
「曲者っ」
 岸の人々が叫んで、手を延した。
「曲者だ」
 二三人が、警固の船手の方へ走出した。四五人が、刀を取って、草叢へ抛出し、羽織を脱いで袴へ手をかけた。
「ああ」
 人々の絶叫が、両岸から起った。

    九

 人々が、動揺し、絶叫した瞬間――川の中の男は、船中へ跳上っていた。駕側の供が立上った時、駕は、左へ傾いて、越中守が駕へ、しがみつきながら
「何を致す」
 と、叫んだ時であった。一人が、刀へ手をかけ、一人が組みつこうと、手を出した時、越中守の首を抱えると、力任せに、脚を船べりへかけ押しながら、己の身体の重みを利用して、越中守を抱いたまま川の中へ、半分傾いていた。
「うぬっ」
 一人は、抜討に斬ろうとしたが、男の上になって落ちて行く越中守へ、刀が当るので、はっとした時|水沫《しぶき》を、高く飛ばし、川水に大きい渦巻を起して、二人の姿は、川の中へ没していた。
 手早く羽織をとった、一人が、川の中へ飛び込んだ。二三人は、刀を抜いて、左右へ動揺している船中から、川水を、睨みつけた。又一人が、飛込んだ。つづいて、裸の一人が、両手を延して、飛込んだ。川水は、人々に掻乱されて、岸の方へまで、波紋を描いた。
 わーっという両岸のどよめき――必死に漕《こ》いでくる警固の舟――川水の中へ、浮き上る黒い頭。その度に人々は
(越中守?)
 と、凝視したが、それは、家来で――いつまで経っても、越中守は浮いて出なかった。
(殺された――相馬大作だ)
 と、人々は、思って、自分達が、手出しをしても、無駄なような気がした。街道を、堤の上を、百姓が、旅人が、走って来たが、誰も止める人が無かった。
「血だ」
「ああっ。血だ」
 四五人が、水面を指さした。反対側の人々が、一時に見にきたので、船が傾いた。
「危ない」
「血だ」
「いかん。おーい、ここに血が」
 船中の人々は、川の上下で、水に潜ったり泳いだりしている人々へ、叫んだ。人々が、泳いで集ってきた。
「見えた」
「浮いた」
 川上へ黒い影がさしてきた。越中守の、黒い着物と、袴とが、水へ写って打伏《うつぶ》せになって、浮上ってきた。
 両岸の人々は、土堤《どて》の左右へ、我勝ちに走って、川面を、川岸を、注意していた。二町も、三町も、川の上、川の下へ、人々は、槍をもち、袴を押えて、走っていた。だが、曲者の姿は、浮いて来なかった。

    十

「何うだい、凄いことをやるじゃあねえか、この狭い渡し場で、多勢の中を、一体天狗業だの」
 一人が、堤の草の中へしゃがんで、こういった。
「全く」
 一人は、女狩を、見上げて
「お武家衆、だから、相馬大作って方は、えらいというのですよ。第一、どう潜ったのか――あいつら夜になっても、ああして張るつもりだろうが、お前、川の中に、抜穴かなんか、あるのだぜ。そうで無けりゃ、第一、呼吸《いき》ができんもんな」
「大作って人は、三日位、呼吸をせんでもいいように――」
「※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》つけ。飯じゃあるめえし――」
「いいや、羽黒の山伏について、修行したんだとよ。その辺の川底に、まだ、潜ってるかも知れんよ」
 女狩は、人々の話を聞きながら
(噂通りに、大変な奴だ)
 と、思った。
(この川へ、何う忍んだのか? 忍ぶのは、夜の内からでも、忍べるが、刺し殺しておいて、何うもぐったのか――判らん。大砲で、討取れなかったから、こんな、突飛な真似をしたのであろうが、成る程な、一人で、乗込んでくるだけある。わしの手におえる奴ではない。十人かかっても敵うまい――といって一体わしは――江戸へ、このまま戻りも出来んし――一体、何うしたらな)
 川面を眺めて、じっと、立っていた。
「渡しを出さんかよう」
 二三人が、叫んだ。
「この大騒ぎに、お前、出すもんか」
 女狩は
(せめて、大作の評判、足跡だけでも聞いて江戸へ戻ったなら――いいや、討取るといって出てきたのに――第一、何か、一手柄立てて戻らんと、女がもらえぬ。あいつは、別嬪《べっぴん》だから――)
 女狩は、失望を感じたが、それと同時に、辛抱をする決心をした。
(この辺に、大作は、潜んでいるにちがい無い。何か、うまい計略でも考えて――)
 女狩は、川岸の乱杭の中に、流れついた竹が、ぴくぴく動きながら、立っているのを、じっと凝視《みつ》めて
(兄も、運の悪い、えらい奴に、討たれたものだ。対手が、強いだけならとにかく、評判までいいのだから――)
 じっと、俯きながら、竹の、川水に動くのを、凝視していた。

    十一

 夜になった。女狩右源太が堤に立って、眺めていた竹筒が、左右へ動くと、人の顔が水の中から出てきた。耳と、眼だけを出して音を、影をうかがってから、首を、胸を出した。そして、身体を顫《ふる》わしながら、堤の上へ這上《はいあが》って、又、暫《しばら》く、四辺を、警戒していたが、静かに、指を口へ入れて、ぴーっと吹いた。
 提燈が、堤の両側に、川下に、川上に動いていた。夜風が、もう冷たくなっていたので、大作の身体はがたがたと、眼に見えて顫《ふる》え出してきた。
「ぴーっ」
 それに応じて
「ほーう」
 と、ふくろうの鳴声がした。低く、ぴっと鳴り、又、ほーっと応じた。茶店へ、押入れられた商人が
「先生」
「寒い」
 暗い中で、大作は、手早く、どんつく布子をきて、髪を束ねた。そして、薬をのんで
「大丈夫か」
 と、いった。
「人数は出しおりますが、恐ろしさが、先で、一言名を名乗ったら、逃出しましょう」
「百姓共は、何んと、申しておる」
「喜んでおります」
「ならよい。村へ逃げて入れば、どこかへ匿《かく》してくれよう」
「食事を」
「歩きながら」
 大作は、立上った。
「よく――何と申してよろしいか、人間業では御座りませぬな」
「いいや、人間業じゃ。死を決して行えば、鬼神も避けるし鬼神も討てる。遠くから手を束ねて討とうなどと考えたから、大砲は仕損じたが、越中風情短刀一本で事が足りる」
「首は」
「首か――斬ろうとは存じたが、わしに救いを求めているらしい眼をみると、気の毒でのう」
「首があっては、家断絶にはなりますまい。急死の届けで、済みましょう」
「首が無《の》うても、当節の役人は、袖の下で、何とでも成る。殺しておけば、津軽も、命には代えられんと思うから、檜山を返すであろう」
「然し」
「戻さん節は、また、殺す」
 大作と、関良輔とは、堤の上から、田圃の畔《あぜ》へ降りて、紙燭をたよりに、村の方へ歩いて行った。

    十二

 いつまでも、渡し舟が出ないで、夕方近くになったから、人々は、そこから先の旅をあきらめて、近い村の百姓家で、泊ることにしていた。
 噂は、大作のことで、一杯であった。誰も、彼も、大作を、日本中で生れた、どの豪傑よりも強いと、称《ほ》めた。
「何しろ、船の中へ、一人で斬込んで、川の中へ潜ってしもうたんだから――」
「大作って、いい男だってのう、色の白い、齢《とし》は――三十七八、背の高い――」
 女狩が
「齢は三十じゃ。余りよい男では無い」
「おやっ、御存じですかい」
 と、いった時、女狩は、側へおいてある刀へ手をかけて、じっと、往来をみた。広い土間に集っている人々は、煙草と、出がらしの茶とを楽しみながら、大声で、談笑していて、一人の侍についても、誰も、注意していなかった。
 往来を行きすぎかけた四人の人が、人々のどよめき、笑い声に振向くと、その中の一人が、走って入ってきて
「吉」
 と、叫んだ。
「おいの」
 二人が、何か囁いていた。女狩は、刀をもって、そうと、土間へ降りた。
(大作にちがいない)
 女狩が、出ようとすると
「これ、お武家、何処へ、行きなさる」
 女狩が、振向いて
「ちと、外へ」
 その男は、首を振って
「いいや」
「何故」
 大作は、向う側の軒下に立っていたが、誰かが、声をかけたらしく、その方を見て、すぐ、行きすぎてしまった。女狩が外へ出ようとした。
「これ、駄目だ――おーい、吉」
 男は、女狩の肩へ手を当てて
「強《た》って行かしゃるなら、承知しねえ。赤湯から、大作様の跡をつけてきてるというのは、お前様かの、それが、本当なら、ただではおかんぞ」
 上り口の人々が、一斉に
「そうだとも」
 と、叫んだ。女狩は、少し蒼くなって
「違う。それは、違う。人違いじゃ。わしは、何も――」
「じゃ、早く、離れて行って、休まっしゃれ。おい、お春や、案内して上げな」
 女狩は
(うかうかしていると、危いぞ)
 と、思って、人々の間を、足早に、奥の方へ入って行った。

    十三

 女狩右源太は、ぼこぼこ土埃《つちぼこり》の立つ街道を、俯きながらゆるゆると歩いていた。足は、南部の方へ向いていたが心はそれと、一緒ではなかった。
(一体、俺は、何うしたならいいんだろう。このまま、何処まで、歩きつづけるのか? 歩いたならいいのか? 相馬大作は、この近くにいる。そして、俺と前後して、矢張り、この街道を歩いているかも知れぬ。俺が、馬で追っかけたなら、半日で追っつけるかもしれぬし、俺が、ここで待っていたなら、半日の内に、目の前へ通りかかるかもしれぬ――しかし――だ)
 右源太は、そう思うと、昨日の宿での、大作の人気に、肌を寒くした。
(大作を召捕りに、江戸から出向いたものだと、一人に話したら、何うだろう。あの百姓共の殺気の立ち方は?――俺は、袋叩《ふくろだた》きに逢って、簀巻《すま》きにされるかと思った。それに、又、あの大胆な大作の振舞は――津軽公を殺して、姿を変えてのこのこと、村の真中へ出てくるとは――いくら、村人が同
前へ 次へ
全8ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング