「何」
叫ぶが早いか、大衆作家になる私だ。えいっ、廊下へ飛上った天狗飛切りの術。
「待ってたわいな」
と、奥から出てくる須磨、それを止めようとする姉、うろうろしている竺という爺さんに、女中。
「行こう」
と、須磨へ云った途端、玄竜が
「人の家へ何や」
と、怒鳴ったから、それ、大衆作家の青年時代
「何」
左手で、ネクタイを掴んで、ぐっと、壁へ押しつけた。
玄竜、顔をしかめて
「巡査呼んでこい」
今でも、おかしくて、笑うが、私も逆上していた。
「何んだ」
二三度、力任せに、壁へ押しつけて、右手は、まさかの時の用意。大衆作家だ、その時分から心構えがある。
「何しなはる」
と、叫ぶ姉。
「宗ちゃん、そんな事したら」
と、止めにくる須磨子。
「出ろ」
旦那様だ。
「荷物が――」
「荷物なんか何んだ。こんな家にいたいのか」
私が降りると共に、須磨も降りた。出ようとするとばらばら――雨だ。ちゃんと、ことごとく、大衆文学の段どりに出来ている。竺さんが
「雨や」
と、云って、蝙蝠《こうもり》傘を出してくれた。二人は、行く所がないので、友人の南惣平の所へ泊った。
二十五
親爺というものは、その脛《すね》を囓《かじ》られていても感じないし
「東京へ早く行って、勉強したい」
と、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]をついても
「そうか、しっかりやってや」
と、すぐ、東京行を許してくれた。私は、女を連れたような、連れられたような形で、東京へ来た。私は、当時一ヶ月の学資として、二十五円もらっていた。
女と二人になってこれで、食えるか、食えぬか? それで、いくらかでも、節約をしようというので、私の考えた事は
(学校は、月謝さえ払えば、商科にいて、文科の講義に出ていたっていいんだろう)
という理論である。それで、月謝の一番安い科をさがしたが、皆一ヶ月四円五十銭で、高等師範部だけが、四円である。
(五十銭でも安い方がいい)
それで、高師部へ入って、生活費五十銭を儲ける事にした。ある日、高師部で何を教えるのだろうと、教室にいると、その時間は内ヶ崎作三郎氏の英語の時間で、田舎の開業医みたいな肥った氏が入ってきて、傲然として、一同を睨み返した。後年、政治家に成るような人だから、高師志望の学生など、高をくくっていたのだろう。私は、一番前の列にいたが
(何んて、生意気な教師だろう)
と反感をもって、こっちも、下から睨みつけていると
「一体、諸君は、英語を何の為に学ぶのかね」
と、喇叭《らっぱ》みたいな声を出して、第一日、最初の口を切った。高師部の人々だから、皆おとなしい。黙って、答えない。すると
「おい、君」
真下の僕を、指さした。僕は、かっとなった。
「愚問ですね」
と、答えると共に、脂切って、肥った面がむかむかと、憎くなってきた。正面から、作三郎を睨みつけて、立上ると
「吾々は、小学生じゃありません。何のために学ぶかなどと、そんな質問をしなくてはならぬような幼稚な生徒に、何のために、教えるんですか」
と、やった。作三郎、さっと、真赤になると
「生意気だ」
と、云った。だが、さっきの喇叭の音のような明朗さがなく、咽喉に何かが引っかかっているような声であった。私は坐った。
「こういう生意気な生徒がいるから、質問したんだ」
私は、立って、教室を出てしまった。それ以来、内ヶ崎先生には逢わぬが、あの時の、人を見下げた態度というものは、いろいろの教師を知っているが、不快千万なものであった。
二十六
月末になってみると、何うも、五十銭の節約だけではやって行けそうにない。それで
(月謝を払わない事にしたら)
と考えた。月額四円の節約、これは大きい。
(何うも、あんな先生のあんな講義で、四円五十銭もとるのは、高すぎる)
島村抱月先生は、何故か休講、坪内先生も二回聞いたきり、相馬御風氏が、文学を講じる外、片上先生、吉江先生も英語を教える時間の方が多い。
(英語なんぞ習いに来たんじゃあねえ、もっと、月々雑誌にかいてるような事を、聞きにきているんだ。それを聞かさないんなら、月謝納めないぞ)
いろいろと理由をつけてみたが、理由よりも、何よりも納める事が出来ぬ状態になってしまったから
(見つかって学生証見せろと云われりゃ、其時の事だ)
と、度胸をきめてしまった。
一二ヶ月は、びくびくしていたが、試験を受ける必要はないし――第一に、もとから、そう勤勉に講義に出てはいないのだから
(一学期分と、四円払っているんだから、それで負けておいていいだろう)
学校へは、友人と話しに行くだけで、ノートなどは
(ノートをとると、盗講になるから、とらないですよ)
というような理由をつけて、一冊もとらなかった。この私のクラスは、谷崎、広津、三上、宇野などの二年下で、里芋に拡声器をつけたような木村|毅《き》。笑画の小間物屋番頭忠八みたいな宮島新三郎、その外、田中純、西条八十、村山至大、青野季吉、保高徳蔵、細田源吉、細田民樹。
このクラスだけで、評論、プロ文学、詩、童話、純文学、大衆文学と、田舎のデパート位に揃っている。
しかし、これは、ずっと後の話で、在学中に、一番花々しかったものは、立石美和の一派で、角帯に、時として前掛けをしめたりしていたが、細田源吉が、苑雪次郎と称して、このグループの雑誌「美の廃墟」に小説をかいていた。沢田正二郎が、わざわざ頸筋に、白粉を残して、得意そうに校内を歩いていたのもこの頃で、頽廃的なものが、主流となっていた。宮戸座に、源之助、工左衛門などを讃美しに行ったのも、当時の流行の一つであった。
「いやな奴だな」
「うん」
青野と、私とは、時々こう云いはっていたが、彼等には、江戸っ子が多く、喋るのが巧みで、どもりの青野や、無口の私は、羨んでいるより外に仕方がなかった。
二人の細田が、娘と、その母とに、二人とも関係したとか、せぬとかいう噂が立ったりした。民樹の「泥濘の道」というこの事をかいたという小説が「早稲田文学」に発表されたが、与謝野晶子が
「こんな事、本当にあるんでしょうか」
と、その四角関係に、呆れた事があった。自然主義末期の影響で、こうした生活を、深刻とか、何んとか考えていたのであろう。
二十七
貧乏人には、貧乏人特有の痩我慢みたいなものがある。人からあいつ貧乏人だと云われたくない、というような、例えば、一円の値の物をやると、矢張り一円の品を返してくると云ったような――一種のひがみである。
私の在学中、私のクラスメートは、恐らく、私の貧乏を知らなかったであろう。それは、その後五六年もして私が原稿をかき出して
「おれは、実は貧乏だ」
と、云っても、信用しないばかりか
「直木の奴、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]吐いてやがる」
と云ったりした人のあるので、明らかであるが、これは、私の家が、古着屋であると云う事を知らない為であったのだろう。家の商売が、商売だし、父が
(せめて、着物位は人並にしてやらんと)
と、云ってくれると、私も若い燕であるし、相当にいい着物を着ていた。
恐らく、クラスの中で、私位、筋の通った着物を着ていたのは、少かったであろう。だから貧乏に見えぬのは当り前である。
それに、須磨子が、美人で、相当の家の女だから、ちゃんとした姿をしているし、何処から見ても、生活の為に、授業料が納められないとは見えなかったにちがいない。何んしろ、この須磨子は、ハガキ一枚買って来いというと、必ず十枚買ってくる。
「一枚だよ」
「ハガキ一枚なんて買えますか」
これが、その内、高利貸しの前で、煙草を喫いながら
「お金なんか、廻り持よ」
と、云うようになるのだから、話もいろいろとおもしろいものがある。
ハガキ一枚が恥かしくて買えぬ位の女だから、友人がくると、ビール、酒、肴《さかな》、どんどんもてなす。いよいよもって、貧乏人ではない。金が無くなると、私に内証で例の債券を処分していたらしい。私は、生活上に経験があるから
(二十五円で、よくやれるな)
と、考えていたが、月々十円位ずつは、債券を食っていたのであろう。
この時分、私の住んでいた家は、今もあるが、私のいた時分には、隣りの大家、村田という大工さんと、二軒きりであった。
場所は、早大グラウンドの後方で、家賃四円八十銭。八、六、二の三間であった。
二十八
何うも、死にそうにない――これは、容易ならぬ事である。
「死までを語る」と題した以上、その時まで書かなくてはならぬが、まだ十年も生きられるとしたなら、私は一体何を書き、編輯者は何うしていいか?
編輯者は、私がもう死ぬだろうから、書かせてやれ、と考えて、書かせた訳であるか――人を呪うと臍《へそ》二つで、今度は、私が
「こんな雑誌、早くつぶれてしまえ」
それなら、書かなくていい。
然し、先月分の本稿を「オール讀物号」の雑文と共に、夜の七時に書上げた時には、三十八度九分の発熱であった。催促にきていた本社の××女史に
「御覧なさい」
と、その検温器を見せた。××女史は
「はあ、三十八度――九分ございます」
と、平然としていたが、編輯者なんぞという奴は、命がけで書いていても、この位、面の皮の厚いもので、人を、じりじり殺していながら
「はあ」
と、すましているのだから――女房になんぞ決してするものではない。
八年六月二十八日の暑い日、私は、朝から倒れたまま、とうとう起上れなかった。その時には
(この具合だと、よく保って二三年か)
と、覚悟した。時々、注射するだけで、殆ど養生をしていない。事実出来ない。
「何うして、養生をしない」
と、誰でも聞いて下さる。
「金がない」
「戯談《じょうだん》を」
馬鹿野郎め、あるか、無いか、一つ、裸になるからよく見てみろ。
二十九
昭和六年の、税金査定が、一万二千五百円である(この額が不当なので、納めなかったら、問題になった)。七年のが、二万千五百円。これも不当だから、審査を願って、これは、一万六千百七円、という額になったが、これから、私の実収入を推察するといい、月二千円内外と踏んでいいであろう。
月収二千円。女房(今はない)子が二人、妾(今はない)、家二軒もっていたとて、二千円なら、千五百円ずつたまるだろう――と、誰でも、こう見ているらしい。
だが、だ。昭和五年の税金を見るがいい。三千七百円(一万を落としたのではない。ただの三千七百円が、税額である)。その前年は無税。
私に今日、多少の名声がありとすれば、それは「南国太平記」からで、それまでは、貧乏以上の貧乏であった。昭和六年に「南国」を書いてから、ようよう月収が、千円以上になりかけたのである。これが、わからないと、私の貧乏はわからない。
久米、菊池、大佛、吉川なんぞという人々は、十年前から、一流の名声と、収入とをもっていた人であるが、私はようよう丸三年来である。
家族は、それでも同じで、妻、妾、子二人、家二軒。だから、いつも、ぴいぴいであった。そして「南国」が終る時分から、肺病にかかったから
「おれが入院すりゃ、明日から家族は食えなくなる。小さい家でも建てて、気長に、養生でもせぬと」
それで、七年の夏から、金沢に、四十七坪の、ほんの小さい家――書斎、次の間、茶の間、子供、女中の五間――何うだ、玄関もないし、客間も応接間もない、ほんの家族が、それぞれの部屋をもってるというだけの家を建てかけた。
所が、よく考えてみると、この話に出てくる父が、大阪で健在である。しかし、もういつ引取らなくてはならぬかも知れぬから、父の部屋を――と考えると、それが無い。それで、別に、私の書斎を、ドライコンストラクション式で、建てることにした。
所が、七年度の収入だから、月千二三百円である。前年まで、ようよう食えるか、食えぬかであったのだから、それだけの金が、全く一文も残らない。
妾宅、即ち、木挽町へ二百
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