計って、帰ってきて、それが少いと
「男につけてやったのだろう」
 と、食ってかかった夫もあるというから、二十年前のいとも優しく、清らけき恋にも、何ういう誤解があるかも知れない。
 徳子は、大阪谷町の薄病院にいた。私が遊びに行くと一人の鼻の高い女――少うし高く、厚すぎる鼻の女が――足の短かいせいであろう、椅子の前へ、踏台を置いて、それへ足をかけながら、薄恕一のいう薬の名と、分量とを、処方箋にかいていた。若い女だから、何より先に、その顔が見たくなって、前へ廻ると、鼻は、横から見る程巨大な感じではなく、やや、八の字の眉、円い眼。中々いい女である。
 青春期の男女や、貴族、上流の婦人は、広く交際をしないから、すぐ手近い所の異性で済ます癖のある物であるが、私の前へ現れた女性として、私の齢に合うのは、この人だけである。
 然し、私は、何事も、貧乏人的に育ってきたから、こうした女と恋をしようなどとは、決して、考えていなかった。
 所が、ある夜薬局にいると一枚の処方箋を、徳子さんがもってきたが、その中に、散薬を包む四角い紙が入っていた。そして、その中に
「私は貴下《あなた》が好きです」
 と、書いてあった。私は、私の身体が、熱くなって、少しぼう張したように感じた。ああいう女が、女の方から、私に云いよるなんぞ、それは、何かの間違いではなかろうか、何うして返事を――何ういう文句で、何うして、それを手渡すか?
「私も、貴女が好きです」
 という紙を、然し、次に徳子さんが、処方箋をもってきた時に、巧みに、人目に見つからぬよう渡した。
 所が、この散薬紙での文通以外、話する事も、何うする事もできない。それで、私は、患者の来ぬ昼間、病院へ出かけて行って、話する事にした。然し、そうなると徳子さん程の女と、徳子さん程の女に思いつかれる程の男とだから、忽ち、評判になって、一日行って見ると、徳子さんが居ない。
 大事にならぬ内にと、神戸の家へ返さしてしまったのである。
 私は、病院を出ると、徳子さんから聞いていた武庫川の堤近く――芦屋の、徳子さんの家へ尋ねて行った。今の芦屋とはちがうから、何処の家にも、猛犬がいた。これが、がんがん吠える中を、訪ねて行ったが
「神戸の家にいなけりゃ多分、友人の宅にいるでしょう」
「友人の家は?」
「何処そこ」
 それから、神戸の家へ行くと
「わかりません」
 の一言だ。これは予期していたのだから、友人の所を訪ねると
「お別れになった方がいいでしょう。徳子さんは別れると申していますから」
「別れましょう。然し、一度、逢わしてくれませんか」
「妾の手では何うする事もできません。徳子さんのお母さんに、話しておきましょう」
 夜になった。十一月の末だ。大阪までの終電車は、とっくに出てしまって、東明までしか行かぬという。金はぎりぎり電車賃しか無い。東明まで行って、それから先は歩いて、少しでも、明日の朝までに、電車賃を節約しておこうと、歩き出したが、とても寒い。
 歩いたとて、いくら儲かる。それで、夜明けを待とうとしたが、十一月末の吹きっ曝《さら》しに、何うとも成るものではない。
 父が、東京へ行くなら、これを着ろと、古着で買ってきてくれた釣鐘マントの半分の奴を着ていたが、それをかぶって、停留所の中で寝る事にした。線路沿いに行くと、停留所があったが、これが何んと、昼間降りた芦屋の停留所である。
(運命だ)
 と思って、砕け、裂かれた身体を横にしたが、半分のマントでは、足がつつめない。足をつつんだ方がいいだろうと、下へやると、何うして、肩の寒さは、じっとしておれるものでない。
 今度は、マントを縦にして、頭から、足の先まで冠ってみたが、腰掛の板から、夜中の凍気が、しんしんと、身体を刺してくる。とうとう
(畜生、徳子、薄情者)
 と、罵りつつ、それでいて、恋しさに、眠れぬ眼を、見えぬ昼間の家の方へ向けて
(そこにいるなら、徳子、おれが、こんなになっているのを見せてやろうか)
 と、いうような呪《のろい》、愚痴。初めて、家を明けるのであるから、親爺の小言が恐ろしいが、そんな事は、丸で考えないで、悄《しょ》げ、怒り、恨み、寒がって、夜を明かした。
 そして、このままこの恋は終った。期間が短かいし、徳子さんの母親が、クリスチャンで、私の趣味に合わなかったから、諦めがよかった。
 この恋愛事件の最中に、一寸、上京した事があった。これが、最初の上京で、宿は、本郷の元の久米正雄の家へ行く、右側の第二何とか館というのであった。
 この時に、中学入学以来初めての写真をとったが、これも、差押えでなくなってしまった。黒木綿の紋付羽織に、白の長い胸紐、今では、暴力団の外に見られない書生風俗であった。男振りもよかった。

    二十二

 この時の上京は――上京してみたくて堪らないので、父へ、下宿の安い所を捜すつもりだし、南も行ったし、藤堂も行ったし、早く行って、準備しておく必要があるという口実であった。
 南も、藤堂も知らぬが、六十になっても死にそうには無いし、弟が十歳になって、これも、学校の成績はいいし
「貧乏人でも、倅の教育だけは、人に負けまへん」
 と、二十年近く同じ町内に住んでいて、古顔になった父は、倅の自慢が、何よりも好きであった。文字通り、食を割《さ》いても、学資の方へ廻してくれた。
 今春陽会の会員である洋画家藤堂杢三郎が、早くから上京して、駒込蓬莱町の下宿にいた。郁文館中学の左隣りで、これも、第二何んとか館という名である。久米氏の近くのは月二十円で、高級であるが、ここへくると月十六円で、二十五円学資をもらうと、十分にやって行けた。
 この下宿へ落ちついたが、下宿から、中学の庭を透して見える、小汚い生垣の、傾いたような家が、夏目漱石氏の旧居で「猫」は、あすこで書いたんだよ、と、藤堂が説明してくれた。
 汚い下宿であったが、その旧居が見えるのが、誇りのような気がして、そこにいた。
 そして、いかに、二十五円より安くて生活すべきかを、藤堂とも話をした。
「飯が焚けるか」
「焚ける」
「上手か」
「上手だ」
 と、いうような会話から、間借りをして、自炊をするのが安い、という事になって、私は、使命を果し、大阪へ戻った。この上京中に、徳子さんへ、手紙を出したので、確証が握られたのである。
 この上京した夜、勝手の知った本郷へ、一人で出てきた所が、今の燕楽軒の前で、書生と、職人の喧嘩があった。
「何っ」
 と、叫ぶと、職人が、諸肌《もろはだ》脱いだので、大阪の喧嘩しか知らぬ私は
(これは危険だ、東京で喧嘩するもんではない)
 と、感じて、以後、手出しした事はない。年に一度位女房へ出すが、これは危険でない。
 大阪では、子供時分から、よく喧嘩をするし、東横堀の木材の蔭に「十銭」と称する立淫売が出没するので、竹をもって、木材の間を掻き廻しに行ったり、松の亭の下足をとる時、うしろから、馬鹿力で押す奴があるので、振向きざま、撲《なぐ》ったり――相当に暴れたが、諸肌脱ぐ、勢を見ると、善良な、強がりだけの大阪者は、一度に、おじけをふるってしまった。
 この上京から、大阪へ戻ると、いつの間にか、徳子一件を、雪ちゃんが知っていて、大いにすねた。もう、十四になっていたから、嫉妬に似た感情をもっていたのであろう。
 徳子と離れ、雪子とおもしろくなくなり、一人ぼっちになった私を、じっと、覗《うかが》っていた女が、ここに一人ある。
 私は二十一、女は二十七。齢から見ると、所謂若い燕に当るが、女は、京町堀小町と唄われ、評判の美人である。
 何故二十七歳に成るまで婚期を外したかというと、当時、有名な「大寺事件」というものがあった。江戸堀随一の旧家、元の十人両替の中の一軒、大寺家に起った謀殺事件である。これと、一寸、女の家とが関係があったので、婚期を失したし、又、意中の人として、木谷蓬吟氏を思うていて、ままにならなかったし、その為、こういう齢になったのである。この女が、上京して、私の童貞を破り、私は女の家へ乱入して、立廻りを演じるという恋あり、涙あり、武勇ありという話になるが、明月に。

    二十三

 雑司ヶ谷、鬼子母神の境内を抜けると、もう一つ寺がある。その側に、植木屋があったが、ここに、仏子須磨子の姉の子が、自炊して、早大へ通っていた。ここへ、一日、須磨子が現れた。井上市次郎というその甥さん――だが六つ齢下の甥さんは
「何んや、喧嘩したんか」
 と、大きい眼を、もっと、大きくして聞いた。
「はあ、もう、大阪へ帰れへんつもり」
 須磨子は、兄の玄竜という人と、余り仲がよくなかった。大学生位までは、美人の妹というものをもっていると、いろいろ利益や、興味が、多いものであるが、生活などが、うまく行かないのに、二十七にもなる妹をもっていると、何んなにそれが、美しくとも、古い女房の、美しさと同じで、少しも、よくは感じないものである。
「植村は」
「田端にいよる」
 私は、田端の、小杉未醒氏の所の近く、泥川沿いの戸叶という家の離れに、藤堂と二人で自炊していた。
 藤堂は太平洋画会へ通っていたし、私は早大文科の予科にいたのである。室生犀星氏が、この藤堂と友人で、びっこの詩人と二人、よく、室生氏を訪問に行っていたらしい。
 この戸叶方へ、須磨子が来て、当分、東京に居るつもりとか、少しはお金がある、とか(これは、二十円の債券を何枚かもっていたのである。勿論、後には、生活費になった)。だが、近頃の時代とちがって、婦人の職業と云えば交換手か、看護婦しかない頃であるから
「置いてもろていい?」
 と、いうより外に、家出娘の生活法はない訳である。
「ええ、よろしい」
 とにかく、対手は、六つ齢上の二十七歳、こちらは、童貞の二十一歳であるから、礼を正しく、言葉を丁寧に
「しかし、寝るところが、ここよりほかに、ありませんから」
「そりゃええわ、一緒に寝るわ。藤堂さんと三人でしょう」
「はい」
 皆、中学同期の出身であるから、仲がよかった。私は身体が、ふわふわとなったように感じたが、それは、こんな美しい人が、自分のような者を手頼《たよ》って来てくれた、という事に対しての感謝で、劣情などの如きは神様に食わしてしまえと
「布団を、じゃ、借りてきて」
「ええ」
 素直に答えたが、この女は私を獲《え》ようとして、大阪から出てきたのである。しかし、何事もなかった。翌日
「市ちゃんとこへ行きましょうか」
「うむ」
 そして、二人は、植木屋の離れで、市ちゃんと三人で寝た。
 その暁、私は、無残にも、取り返しのつかぬ事を、されてしまったのである。

    二十四

「荷物をもってくるから」
 と、云って、須磨子は、大阪へ帰ってしまった。私は汚された身を、袴でつつんで、おもしろくない講義を聞きに行っていたが、その内
「家との事が、中々面倒で――あんた、いつ帰る」
 と、いう手紙がきた。そして、この手紙の終りに、何んと「旦那様」と、書いてあった。
 うれしいような、馬鹿にされたような――こんな言葉は車屋と、乞食の使う言葉で、使われる奴は、五十歳以上というように感じていた私は、その手紙を披《ひろ》げて、にやにや笑いながら
(矢張り、征服したのかな)
 とも、感じた。暑中休暇がすぐに来た。大阪へ帰ると
「家から出してくれぬ」
 と、ノートの端に走り書をして、使の者に届けさせてきた。
「奥へ入れたっ切りで、兄が見張っている」
 二十一の男を、大阪から、いい齢をして、追っかけて行ったのだから、兄玄竜の怒るのも尤もである。だが、私の怒ったのも、又尤もであった。
 雨もよいの空、私は、怒りのかたまり見《み》たいになって、須磨子の家の門を押した。ぎぎいと、重い重りが鳴り、鎖ががらがらと響いた中へ入ると、暗い。のぞくと、誰も居ない。
「お須磨さん」
 と庫裡へ入って、声をかけると、市次郎の母が出てきて
「何んです」
「お須磨さんは?」
 と、聞いた時、兄玄竜が
「来てもろたらいかん」
 と、奥から出てきて、廊下へ立ったままで云った。
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