円(家賃百円、文藝春秋の倶楽部で、その頃は私が一切経費を出していた)、己の所が三百円(家賃は七十五円)、私の小遣、二三百円(交際費、貸金、旅費等々)として、建築費に廻るのが、五百円位の予算になった。
 四十七坪、坪百円だから、一年足らずで建つ、と思ったのが、そもそも大まちがいの因で、この建築費の外に
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スチールサッシュ        一八〇〇円
山の崩し賃            七〇〇円
昼間電気設備           八〇〇円
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 昼間電気位は来ていると私は思っていた。亀楽煎餅の別荘とか、佐分利公使の家とかがあるのだから、そんな事は考えていなかったら、こういうブルジョアめ、昼間電気無しでいたのである。私が、杉田から引っ張って来たら
「私の所へも、私の所へも」
 こ――これでないと、金はたまらない。
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急設電話            約八〇〇円
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 長者町局特別区域外で一町十八円ずつとられて、総額以上。
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配水、排水設備          七〇〇円?
温房設備             ?
  目下設備中
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 即ち、五千円の超過である。庭も、垣も、門もなくて、これである。月に割って、五百円――この外、小さいいろいろの物があるし、二三改めさせたから、四千八百円より高くなっているし、ざっと、一万二三千円であろう。
 五百円ずつ余すつもりの所が、千円になっては、眼を剥く他はない。だから、大工さんに
「急がない、気長にやってくれ」
 七年七月から建てかけて、八年の八月、何うにか住めるようになり、移ったのが、十一月の五日。
 この家だけ貯金できた訳であるが、金が残るか、残らぬか、一寸、計算して見給え。八年度になって、月収二千円になると女房と別れなくてはならぬようになり、妾は出て行くし、収入は多くなった代りに、出る金も多くなった。
 八月に出来て、十一月まで入れなかったのも、金の無い為である。諸道具一式女房にやったので、灰や、雑巾からして買わなくてはならぬ。一通り、道具を揃えるのに、二千円程かかっているから、何処で、金がたまるか? だから
「金は一文もないよ。入院したら、明日から食えない」
 は、少しの偽りも無い言葉で、何処かの銀行で、僕の貯金でもあったら、そのかかりの銀行員でもいい、発見した人に進呈する。

    三十

 その小さな新居で、今、これを書いているのであるが、午前五時十六分前、徹夜である。これで、肺病が治るであろうか。
 暖房装置がまだ出来て無いので、炭火である。そろそろ空腹であるが、女中二人と、娘一人っきり(読売新聞の結婚談は大※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]である)、神経痛で、腰が痛むから、尿瓶《しびん》を置いて、用を足す位で、勝手へ行って、パンを焼く気にもなれない。
 明日の起床、午後二時、太陽は、少し右へ廻っているから、折角、縁側を広くして、日光浴でもして、と考えていたのも、全然駄目で、朝は、腰が曲らぬから、がさがさと赤ん坊のように這いながら、この縁側で、ようよう新聞を読む位。
 東京へ出る日には、アトファンを、寝る前に飲んで、朝痛みの少いようにしておいて、あんよは御上手程度に歩く。
 しかし、こんな無茶をしていながら、痰《たん》が少くなり発熱も、低くなり、咳《せき》も少くなった。六月頃まで、横浜、東京間で、二十回位、痰の出たのが、この頃は、二三回である。
 だから、いよいよ又、元の徹夜生活へ戻りかけているのであるが、これが何処まで押し通せるか?
 私は、私の気力だけで癒すつもりをしているが、もし癒ったなら、闘病法を詳しくかくつもりである。無茶に似て無茶に非ず、私とて、今死にたくはない。

    三十一

 そこで、本文へ戻るが、私は、年増に惚れられる位であるから、何処か、いい所がなくてはならぬ筈だと、自分では考えていた(これは逆に、年増しか対手にしないのだから、取り柄の無い男だとも云える。この判断は、自分でよくわからない)。その、いい所は何処であったであろうか、という話であるが――早大グラウンド裏へ移転して、四円八十銭の家に住んだ時、裏手の家(四軒長屋)の妻君が、裏口へ挨拶しにきて
「同国人が入《い》らしたので、大変心強くおもいますわ」
 と、云った。私の女は、腹をかかえて、飛んで上ってきて
「貴下、支那人やわ」
 と、笑いこけた。
「何が支那人だ」
「裏手は支那人やろう。奥さんは、日本人やけど」
「うん」
「その奥さんが、同国人が来たので」
 僕は、苦笑しながら、さては、支那人のように、のんびりしている所があるのかな、と思って
「似た所があるかい」
 と、聞くと
「そう聞くと、そうかも知れん」
 と、私の顔を正面から見たが、私は
(何言ってやがる、ちゃんちゃん嬶《かかあ》め)
 と、思って対手にしなかった。所が、これは後日であるが、家賃も払えなくなって、間借りした時、若松町の湯屋へよく行った。
 電車通り、大久保の方へ曲ろうとする所の右側の銭湯である。一日、人の居ない昼間――失業者には、風呂に限ると、ゆっくり、天井を眺めていると、三助が出てきて
「お国は、この頃、埃《ほこり》で大変でしょうな」
 と、云った。いつこの三助、私の大阪生れを知ってるのだろうと
「東京と同じだよ」
 と、答えると
「私は、これで、戦争に行って、約半ヶ年あっちにおりましたよ」
 あれ、又、支那人かと、これは二度目だけに、私も、自分の顔の支那出来を、肯定しなくてはならんようになった。だが
「わかるかね」
 と、いうと
「随分、あんた日本語がうまいが、矢張り、わかりますよ」
 私は暫く、これから、その湯屋へ行かなかった。戻ってきて、この話をすると
「矢張り、あるのかしら」
 と、女は答えたが、生活に打ちのめされていた頃とて、前のようにおもしろくはなかった。声高く笑えないで、微かに不快ささえあった。
 これだけならいいが、大震災の時に、私の情婦を、巣鴨へ訪ねて行って、帰り途、護国寺の前へくると、自警団につかまってしまった。
「お前、朝鮮人だろう」
 と、一人が云うが早いか、ぐるぐると取り巻かれてしまった。
「戯談《じょうだん》云っちゃあ困る」
「いや、朝鮮人だ」
「何んな面だ」
 とか
「ちがうちがう、日本人だ」
 とか、いろいろ周囲で騒いで、無事に納まったが、これで見ると、朝鮮式の所も、多少はあるらしい。
 つまり、いくらかのんびりとしている顔で、そこへ女が惚れるのにちがいない。鏡で、自分で見ると、何処にも、そんな所はないが、人が見ると、いろいろに見えるものと見える。

    三十二

 学校の思い出は殆ど無い。
 中学以来、学校は下らないものだと考えていたのが、確実になっただけである。
 親でもなく、叔父でもなく、主人でもなく、先輩でもなく、先生という一つの尊敬と、なつかしさとをもった人格は、確かに、立派な存在であるが、私は、故郷をもたぬように、そうしたなつかしい先生をもたない。中学の木村寛慈先生が、ややそれに近いだけで、時々、先生はいい仕事だとおもうが、そういう人に逢った事はない。
 小中学で、本当に、智慧なり、人格なりに、影響を与えてもらった人だったろう。恐らく、親よりもなつかしいと思われるが、そうした教育者は少いらしい。
 大阪という土地は、故郷という気のしない所であるし、小中大学に、学校のなつかしさの無い人生は、相当に淋しいものである。
 私のように、その精力以上に、働いている者は、時として、故郷というような所で、深い安息を求めたい気がする。
 私は、新居へ移ると共に、私の部屋へ引っ込んで、自分で炊事できるだけの道具――土釜、土鍋、七輪の類をととのえた。隠居の志が可成り、深い所に潜んでいるらしい。
 何か一つ、ショックを受けたら、私のような人間――負けずぎらいで無理してきた人間は、一度に敗けて、田舎へ逃げるかもしれぬ。
 こういう事が無くても、一人で飯を焚き、一人で暮らしている生活をしたい望をもっている。だが、私の係累《けいるい》は、ことごとく、私より若く、強い。矢張り、私は働きづめに死ぬのだろう。

    三十三

 私が早大を卒業――というのはおかしいが、クラスメートが卒業したので、私も遊びに行けなくなった時に、もう小説を書いて、売出していたのが、谷崎精二、広津和郎、舟木重信氏らで、国枝史郎が「レモンの花の咲く丘へ」とか「胡弓の弦の咽び泣き」とかという題の作を出したのもその頃である。
 同級生の中では、同じ姓が、競争させるのであろう。細田民樹と、源吉とが「早稲田文学」へ創作を発表した。卒業の前から、保高徳蔵は「読売新聞」に新設された婦人欄の記者として、試験をパスして、就職するし、鷲尾浩が、レートの広告部へ入って、月給四十円。
「うまい事しやがったな」
 と、吾々は、その月給の高を羨んだ。田中純に、宮島新三郎などは、相馬御風氏から仕事をもらっているらしいし、西条八十は、株式相場で生活していると聞くし、それぞれ生活の心配が、何うにかなくなって行く内に、いつまでも職の無いのが、青野季吉と、私とである。二人とも、女房がある。私は、そんなに喧嘩をしないが、青野は、よく夫婦喧嘩をして
「ま、ま、又やってきた」
 と、どもりながら、半日位遊んで行った。在学中、私は早稲田美術研究会の幹事をしていたが、その縁で紀淑雄先生から、日本の美術に関した本を全部書上げてくれないか、出版部から発行するから、という話があった。私は、すぐ金にならぬが、何もする事が無いし、仕上げたなら金になるだろうと、父に
「こういう仕事があるから、それの終るまで、毎月今まで通りに送金してもらいたい。就職口は、そう急にないし、大阪へ帰ってはいけないから、是非たのむ」
 と、云ってやった。期間は三ヶ月と切って、それ以上はいらぬ、とつけ加えた。坂崎|坦《しずか》氏、森口多里氏など、この研究会の幹事であったが――それから、三ヶ月、毎日、上野の図書館へ通った。今何うか知らぬが、いつも満員つづきで、待たされるのに、いらいらしながら、古来からの東洋美術に関する書籍をことごとく調べて、書上げた。所が書上げると同時に
「出版部の都合で中止になった」
 と、云われてしまった。私は、大してこういう事に憤慨したり、怨んだりする性質ではないが、失望はした。そして、こんな事は、一切女房に打明けない性でもあるから、仕方が無いと、一人であきらめて、又、青野と夫婦喧嘩の話をして日を送っていた。

    三十四

 その内に、田中純が、一つ仕事をもってきてくれた。それは、当時「アカギ叢書」という十銭で、何んな事でもその梗概だけはわかるという本が出ていたが、それが売れるので、それの模倣の十銭本が、いくつも出たのである。私のは、その中の一つで、トルストイの「戦争と平和」を、二百枚にちぢめて書いてくれ、原稿料は四十円。名は、相馬御風氏のを借りるという仕事である。
「翻訳は出てないだろう」
 と、聞くと
「無いねえ」
 大変な本である。読むだけで、十日や、二十日はかかる。私は四十円の稿料が、灼けつくように欲しいし、見ただけでうんざりする大部の書物を考えると、暗くなってくるし、大抵の事は即答する私であるが、一寸考えこんだ。しかし
「やろう」
 と、云わ無い訳には行かなかった。それから並製本の「戦争と平和」を買ってきて、読みかけたが、三四十頁も読んで、ようよう梗概が二三行しか書けない。私は、幾度か投げようかと思ったが、四十円あると、夫婦で二ヶ月暮らせるし、女房は妊娠しているし、三四日、半分怒りながら書いて行った。三分の一仕上げた頃から楽になって、少しずつ進みかけたが、半分を終った頃、小川町の国民文庫刊行会という名著を大部な予約で出版する家から、「戦争と平和」の上巻だけが出た。私は今までの経験で、この時位がっかりした事は無かった。金高は四十円だ
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