町の腕白共を対手に、竹竿をもち出して、大喧嘩をしたのも、その時分らしい。私は、中学でもう一度、大乱闘をやっているが、それは後の事にする。

    五

 小学では、秀才で、大抵一位か、二位であった。今、何うして、こんなに字が拙くなったのか知らぬが、御手本を見て、真似する字は、私が第一で、丁度、三年生の時、書の上手なのを、雨天運動場へ掲げるようになったが、真先に、私のが出た。
 父は、寺子屋しか知らぬから、字が上手だと、何より喜んで、この時も、すぐ、薄氏の所へ自慢に行ったらしい。
 所がである、同じ三年の時、菅原道真の事が、読本に出ていた。その中に「遷《うつ》され」という字があったが、先生から、聞かれても、誰も答えられない。
「植村」
 と、最後の指名が、いつもの如く私へ来た。
「流されです」
 と、答えると
「意味は同じだが、うつされと読む」
 と、先生が云った。それまで、級中第一の自負心をもっていた私は、この間違いが、叩きのめされたように堪えた。それ以来、いかなる場合にも、知っている、という合図の為に揚げる手を、決して揚げなくなってしまった。
 幼稚園時代の極端な、はにかみ屋が、又復活して、これは、その後――今日も猶、つづいている。座談会などへ出ても、自分から中々口を開かないのは、その時からの習慣が、中学を通じて、天性のようになってしまったからである。
 この打撃は、可成りひどかったらしく、学校が嫌になって、四年の時には、四番目か、五番目へ落ちた。
 だが、父は貧乏の中から、学校だけは、大学までやると、必死になってくれたので、何の不愉快さも残っていないし、不自由さも感じなかった。
 然し、家庭での生活は、今、考えると、みじめ極まるものであった。

    六

 私は、玩具をもった記憶がない、と云ったが、殆ど、間食をした記憶もなかった。いくつ位の時であろうか、家が近いので、学校から、一時間の昼飯時には、帰ってきて食べる事にしていた。遊びたい時分なので、急いで、御飯を食べ終ると、母に
「焦げあるか」
 と、飯の焦げた所の残っているのを、催促する。
「ある」
「とっといてや」
 と、云って、走って、学校へ行ってしまうが、この焦げた飯を握ったのが、私の間食であった。それから、母は、釜や、櫃《ひつ》の洗った残りの飯粒を、笊《ざる》へ入れて、天日に干しておいてくれて、これも、私の間食になった。後になると、私自身が、それを造って食べていた。
 家へ戻ると、中々、出してくれないし、玩具も、何も無いから、私は、チョークを買ってもらって、それで、押入の板戸へ、絵や、字を書き出した。小さい家で、大阪流に、中の間は、薄暗いが、その中で、夜になるまで、書いては消し、消しては書きして、板戸の下から、三尺位の上下は、白墨の白さが、しみ込んでしまっていた。
 それから、間なしに、店と、中の間の間に、一尺四方位の硝子《ガラス》が、一間余り入ったので、嬉しくて堪らず、そこを又手習台にして、主として、絵を描いた。
 時々、近所からの貰い物などがあるが、そういう物は、自分の生活とは、ちがった物のような気がして、例えば、菓子を食べても、それが無くなると、欲しいという感じは、絶対にしなかった。食べられないのが、本当で、食べるのは間違っているように、感じていた。
 生れた時から、こうして育つと、貧乏を少しも、貧乏とは感じないものである。これが、誰でもの生活だ、というように――子供であるから、簡単に――たまたま友人の、広い家へ行っても、何の感じもなく、羨望も何も、起らなかった。
 内安堂寺町の上の方に、尼寺があって、そこに、国宝の観世音が祭られているが、その縁日が、八の日に立つ。立つと、玉造から、丁度、私の家の辺まで、七八町――大阪で有名な夜店である。
 いつ頃か、一人で行くようになった時に、小遣銭として、二銭母がくれた。これが、小遣をもらった最初であるが、二銭を握って、三度位、七八町の間を往復したであろうか? そして、とうとう何も買わずに戻ってきた事があった。
 この中で、本だけは、よく買ってくれた。その時分、道頓堀筋、日本橋東へ入る南側に、絵本屋があったが、そこへ行って、絵本を買うのが、唯一の楽しみで、当時一冊、三銭位であったであろうか、彩色した袋の中に入っていて、中は、馬糞紙の粗末なものであったが、それだけが、私の買ってもらった唯一のものである。

    七

 私が生れてから十年目に、弟が生れた。父が
「清二が生れよったさかい、いつまでも御前遊んでたら、何んならん、少し、うちの事手伝い」
 と、ランプの掃除が、その第一の仕事になった。これは、前々から、私がやっていたらしいが、洋燈の掃除について、一寸も叱った事の無かった父が
「こら、汚い、もっと丁寧に掃除せんといかんがな」
 と、叱るようになってきた。それから、子守。この子守は、母と二人で、大抵母が守をしてくれるが、夕方、骨屋町へ買物に行く時には、帰りに持ち物が増えるので、必ず私が母について行く事になった。
 骨屋町とは、南北に通っている町で、俗称であるが、それは、和泉町から本町へかけて、丁度、今の公設市場のように、一切の食料品店が、その辺に集っていた。
 これは、大阪が、一番よく発達していたのではないかと思っているが、私達の住んでいた上町――坂の上の方にある町、高い所の方の町の意、東横堀川より以東を総称す――は、船場、島の内より見て、貧乏人階級であったから、自然に、そういう風なものが、利用されたらしく、少し経ってから、空堀の方、玉造の方にも、そういう市場の集団が出来た。これは、横堀以西に余りないのであった。
 八百屋、魚屋の類が、凡そ、二三町の間に、連なっていたが、ここで物を買うと、近所の同じ商人で買うより安いから、子供を背負うて買出しに行くのである。母が、葱《ねぎ》と、大根との風呂敷包をもって、私が、弟を負うたり、その反対だったり――それから、それが、だんだん慣れてくると、私が一人で買出しに行ったり、弟を背負うて、母を連れずに行ったり――思春期前の少年だから、平気で
「この頭おくれ」
 と、出汁にする鰻の頭を一皿買ったり、牛肉屋が顔馴染になったので
「味噌まけといてや」
 と味噌を、余分に入れさせたり――そして、多分、私が弟を背負って、そうして、大抵毎日買って歩いているのが商人達に、記憶されたらしく、それから又、憐れまれたらしく――私等兄弟より外に十歳位で、そんな所へ、惣菜《そうざい》を買いに行く奴はいなかったらしく
「まけといたるで」
 と、鰻屋が、八幡巻《やわたまき》を一本添えてくれた事があるし、牛肉屋が
「葱もおまけや」
 と、添え物の葱を一つかみくれた事もあった。そして、そういう日は、私は得意で
「まけてくれよった」
 と、自慢した。この惣菜買いは、それから後中学へ行っても続いていた。
 所が、困った事に、鰻の頭や、葱のしっぽだけでは、大して手助けにならぬし、小僧を置くような資力はなく、私が、惣菜買いの上手を見込まれて、今度は、父と共に、古着の包を背負って、歩かなければならなくなった。
 鑑札が、正面の柱にかかっていたが、それには「古物商」と書いてあった。古い物なら、何んでも買うのである。父は、着物の外に、金物や、道具の類は、少しも判らないが、それでは、商売にならないから、わかったような顔をしていた。そして、鉄瓶《てつびん》を買ってきたり、箪笥《たんす》を買ってきたりしたが、それを値踏みするのは、いつも、近所の、岡本という古着屋の人であった。
「宗一、岡本はん走って、行って、これ何んぼや聞いといで」
 と、売りに来た客へ
「すぐ、持って行きまっさ」
 というような事を云って、帰しては、私が走って、値を聞いた。そういう物が、少し嵩張《かさば》ると、父は
「宗一、手伝うて」
 と、云って、私に半分、背負わせて、持って行ったり、持って戻ったりした。
 電車の出来たのは、それより、ずっと、後であるから、大阪中、何処でも、歩いて行くのである。父は、今年八十三歳で、未だ元気であるから、少々のことは、平気であるが、私は、弱かったから、古着の三十枚も、首へ巻きつけ、肩へのせて、天王寺や、玉造や、淡路町――時として、住吉の近くの勝間辺まで、往復するのは、可成りつらかった。
「若い間に、苦労しとかんと、えろなられへん。わいら、天保銭三枚もって、大阪へきて、こないなったんや」
 父は、大抵同じ事を云った。この小僧代理は、思春期に入ると共に、甚だ不愉快なものになった。しかも、真向うに、惚れた女が出来、古着屋という商売が、余り上等でないとわかってきてからは
「宗一、浜はんへ行って、買うたんのとっといで」
 と、云われるのが、何より嫌であった。然し、これは、すぐ間もなく、中学へ入ったので
「勉強の邪魔になる」
 と、いう口実を造って、逃げてしまった。

    八

 この尋常小学在学中に、私を可愛がってくれた人がある。相当、父は長く、同町にいるので、町内の人とよく交際していた。その中で、売薬屋をしている楠という家に、一人の婆さんがあった。
 この婆さんの娘が「渋川」という特務曹長の妻になっていたが、軍人の事|故《ゆえ》、時々、転任するので、その間淋しいらしく、男の子は「二宗商店」という、例の「照葉」に指を切らした放蕩《ほうとう》息子を生んだ大阪屈指のべっ甲問屋へ奉公へ出ていていないし、それで、私が行くと、いろいろと、もてなしてくれた。家で、間食の味は、殆ど知らなかったが、ここでは、いつも、菓子をもらった。
 この渋川特務曹長が、時々、戻ってくると、子が居ないので、矢張り、私を可愛がってくれた。白葡萄酒をのましてくれたが、私は
(世の中に、こんなうまいものがあるだろうか)
 と、感じた。早稲田を出てからさえ、白葡萄酒だけは、どうかして、一本欠かさず備えておきたい、というのが、人生の希望の、大きい一つであったが、今頃飲むと、一向うまくない。
 食べ物では、今でも、食べたいと思うのは、蒟蒻《こんにゃく》。今の蒟蒻とは、蒟蒻がちがうらしい。もっと、色の黒い、汚い黒い斑点の入った――それが、実にうまかった。例の、夜店の関東|煮《だき》屋の品であるが、これも、すっかり無くなった。水飴、和砂糖――飴は今でもすきであるが、瓶へ入ったとろとろの飴など、食べられない。田舎へ行くと捜すが、もう、田舎にもなくなっている。
 渋川特務曹長が、千日前の見世物というのを、初めて見せてくれた。見せ物などは、他人の見る物だと、看板ばかり見て、決して、中へ入った事のなかった私は――何うだ、第一に「へらへら坊主と、海女」へ入ったのである。
 舞台の前に、水槽があって、その中へ、赤い湯巻一枚の海女が、飛び込んで、中で、踊を踊るのであるが、十か、十一の私には特務曹長の感じるような事は感じない。
(何んだつまらん)
 と、思って眺めていたが、今考えると、惜しいものである。何んだつまらんと思うもう一つの理由は、表看板に、海中で、海女が、蛸や、魚と、格闘している図が描いてあるから、その通りの事をして、見せるのだと考えていたせいもある。それが、全くちがったのだから、失望した。
 この海女の前に、へらへら踊があった。黄色い手拭で、頬冠りをして
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へらへったら、へらへらへ
はらはったら、はらはらは
へらへらへったら、へらへらへ
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 と、唄いながら、坐ったままで、扇を動かしているだけの、智慧の無いものであるが、それが、相当人気があったのだから、大部、今日と、人心がちがう。初めて見ただけに、この印象は、強く残っている。
 その次に見たのは「改良剣舞」、女ばかりで、剣舞の真似と、芝居の真似とをするものであるが、これは、大変、気に入って
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頃は元暦元年の
  どんどん
源平、須磨の、戦いに
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 いつか、放送局で、この節をやったが、私も中々上手である。すっかり、憶えてしまった。
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