死までを語る
直木三十五

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)編輯《へんしゅう》

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(例)植村与一兵衛宗春|尉《じょう》

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(例)※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]
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  自叙伝


    一

 大草実君が
「直木さん、九月号から一つ、前半生記と云うような物を、書いてくれませんか」
 と云ってきた。私は、今年四十二年六ヶ月だから「前半生」と同一年月、後半世も、生き長らえるものなら、私は八十五歳まで死なぬ事になる。これは多分、編輯《へんしゅう》局で、青年達が
「直木も、そう長くは無いらしいから、今の内に、前半生記みたいなものを、書かしては何《ど》うだろう」
 と、云って、決まった事にちがいない。そして、大草実は
(長くて一年位しか保つまいから、丁度、これの終る頃くたばる事になると、編輯価値が素敵だ)
 と、考えたのであろう。
 全く私は、頭と、手足とを除く外、胴のことごとくに、病菌が生活している。肺結核、カリエス、座骨神経痛、痔と――痔だけは、癒ったが、神経痛の為、立居も不自由である。カリエスは、大した事がなく、注射で、癒るらしいが、肺と、神経痛は、頑強で、私は時々、倶楽部《クラブ》の三階の自分の部屋へ、這《ほ》うて上る事がある。
 私が、平素の如く、健康人の如く、歩き、書き、起きしているから、大した事であるまいと、人々は見ているらしいが、五尺五寸の身長で、十一貫百まで、痩せたのだから、相当の状態にちがいない。
 そして、何の療養もせず、注射をしているだけであるから、或は、この賢明なる青年達が、見透した如く、私は、来年の何月かに、死ぬかもしれない。
 ただ、齢が齢故、病状の進行が遅いし、意地張りで、こんな病気位と、大して気にも止めていないから、大変、青年達は見込み外れをするかも知れないが、それは、今の所、何っちとも云えないであろうと思う。
 私も死にたくないから、いよいよ病が進んで来たなら、山へでも入って、専心に闘病してみるが、何んしろ、病人だと思った事がないのだし、三十八度五分位熱を出しても、原稿を書くし――それに、幾度云っても、誰も信じないが、入院して、静養するような金は一文もない。これは、近しい友人でさえ、私が説明せぬと、わからないのだから、他人が、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]にするのは当前である。
 何んしろ、桓武天皇時代からの貧乏で、死ぬまで恐らくは、火の車だったり、水の車だったりであろうが、何の位貧乏し、何う大きくなって来たか、私の幼年時代から、話をして、死土産にしておこうと思う。

    二

 貧乏は、桓武天皇以来であるが、祖先は、植村与一兵衛宗春|尉《じょう》、という人からしか判っていない。私の本名は、植村宗一で、植を二分して、直木と匿名にし、当時三十一であったから、直木三十一、翌年三十二と、一目上りに変えてきて、三十五で止めたのであるが――この与一兵衛は、大和国箸尾村の土豪であった。与一という名から考えて、十一番目の子らしいが、その時分、それ程正確に、名をつけていたか、何うか分らないから、断言はできない。那須の与一、真田の与一、十から一つ出るので、十一男には、与一とよくつけるのが習慣である。
 高取城々主も植村というが、それなんぞと、関係があるかもしれぬ。天正年間、筒井順慶が、織田信長の命によって、大和を平定した時、順慶と戦って討死した。墓が残っている。
 それから、何代か後になって、東本願寺の家老となった。下り藤の紋のついた鉄砲が、それを物語っている。それから、植村常右衛門の代になって、郡山藩の侍講になった。相当尊敬されていたと見えて、年に一度の、煙火《はなび》の催しの時に、殿様が郡山から、常右衛門が、反対側から、煙火見物の橋上へ、同時に現れて、挨拶をし、それから、打揚げにかかったのだと、よく父が語っていた。
 この常右衛門が、私の父の父で、私の父は、三男として生れ、長子常太郎は、本家を継ぎ、次子は亡くなったが、父の弟も健在である。
 丁度、それが、維新の変乱の時で、この程度の家は、傾く一方で、私の父惣八は、とうとう天保銭を三枚もったきりで、大阪へ出奔してしまった。それから、大丸屋呉服店へ奉公して、番頭になったが、何か熱病で、夢中の内に、情婦に逃げられたりして、店も面白くなくなったのであろう。大丸での智識を基として、古着屋になったのである。父は、よく今でも云うが
「大野の植村と云うたら、大和の人で、知らん人あれへんで」
 という自慢は、本当らしく、一族には、富家が相当にある。この父の所へ、母が
「大野の植村の息子」
 というので、嫁に来たのであった。来てみると、店先には「ぱっち」(股引の事)二三足と、汚い古着が、四五枚釣ってあっただけだったので、びっくりした。と、よく話していたが、これが、そもそも貧乏の始めである。
 母の家は、大和の国の安堵村の下長で、藍と、木綿とを商にしていたらしい。幼少の時、父が死んで、その弟が、時代の衰勢と、自分の怠惰とから、すっかり、身代をつぶしてしまったらしく、後に、筆墨行商人になって、私の家へ、よく来たが、くると、母に叱られて、よわっていた。
 池のある大きい、広い山があったし、馬がいつも、五六頭店先にいたと、母が話しているから、相当の商家であったのであろう。

    三

 この母に、一人の弟があった。養子に行って、新井姓を名乗り、孝次という名であったが、これが秀才で、大阪谷町の薄《すすき》病院の院長、大阪府会議長の薄恕一氏と、親友であり、早世して、非常に惜しまれたが、その為、この薄氏と親しくなり、殆《ほとん》ど育つか、育たぬか分らなかった私が、とにかく、四十三まで、生きて来られたのは、この人が居られたからである。
 私の宗一という名は、鹿児島の、貴島清(西南役の雄将)の息子さんで、名は忘れたが、軍医の人がつけたもので、私の弟の清二というのは、この薄恕一氏が、名づけ親である。
 私は、父が四十の時に生れた子で、母は嫁入してから、八年目である。もう無いものと、諦めていたのが、出来たから、ひどく喜んだらしいが、病弱で、育つか、育たぬか分らなかったらしい。だから、いつも家の中に、じっとしていて、初めて、幼稚園へ行った時など、一人、運動場の隅に立っていて、何んと云っても、人の中へ入らず、母は、心配して、泣いたそうであるが、それが、こういう風に、図々しくなるのだから、おもしろいものである。
 生れた所は、大阪市南区内安堂寺町二丁目であるが、今、そこは、電車路になっている。谷町六丁目交叉点の、内安堂寺町側、谷町館の東側、丁度、乗客が電車を待つ為に立つ所が、そうであった。当時の谷町筋は、鎌倉時代から、紀州、河内へ行く、唯一の道で、今の天満橋、昔の渡辺橋から、一直線に、天王寺の前へ出て、丁度、右手に海を見晴らし、左手に小高く森のつづいていた道であるが、極めて細いものであった。
 城に近いし、唯一のいい路なので、砲兵隊が大砲を率いて、よく通ったが、私の家の上げ店が、その車輪にかかって、破られたのを、覚えている。
 この生れた家は、私の記憶にして、誤り無くんば、三間あった。店と、次と、奥と――そして、道具として、長火鉢が一つあった。私が立てるか、立てぬかの時分、この長火鉢の抽出しを開けると、油虫が、うじゃうじゃと走り廻っていたのだ。
(何んだろう)
 と、別に、恐くもなく、不思議がったのが、今でも、はっきりと残っている。店の品物なんぞは、有ったか、無かったか、少しも憶えていないが、汚くて、暗い家であった印象は、本当であろう。
 この家に出入していた人で「鹿やん」というのが、その後も、よく母を慰めにきて、私の為に土産物などをくれたらしい。母が、私の幼時の唯一の話として、いつでも聞かせたのに――この鹿やんが、住吉神社へ詣って、土で彩色を施した馬を買ってきてくれた。私は、幼少時代、玩具という物を持った覚えがないが、母も、この馬は嬉しかったらしい。それを私は、持ち上げると共に
「四王天、馬とって抛った」
 と、叫んで、土間へ投出したのだそうである。土の馬故、粉々で、鹿やんは
「ああ」
 と、云ったまま、ひどく悄気《しょげ》たというが、この事は、幼稚園以前であるから、私の大衆文学智識というものは、相当に古くから、その淵源をもっている。
 これを裏書するもう一つの事実は、東京の新粉細工《しんこざいく》、大阪団子細工、あれの細工しないで、板へ並べただけのものが、――今も、何んというか知らぬが――欲しくて仕方がないが、名がわからない。いろいろと考えて
「義経の八艘飛《はっそうと》びおくれ」
 と、団子屋に云った。
「八艘飛びあれへん」
 と、素気なく云われて、幼稚園で、友達の中へも入れぬ臆病な私が、大道の真中で、何んなに立ちすくんだか、それから、暫《しばら》く、団子は買わなかった。
 この、四王天や、八艘飛びは、鹿やんが教えてくれたものらしい。私の為に、絵本や、立版子《たてばんこ》を買ってきてくれたのは、ことごとくこの人であるから、何一つ、その話していてくれた事も思出せないが、父も、母も、そんな事は、全く知らぬのであるから、私の今日は、鹿やんのお蔭である。この鹿やんは、それから後、ずっと来ないようになったが、小学校時代に、その死を聞いた。何の感じも起こらなかった。鹿やんへの記憶が、余りに、幼い時分の為であったのであろう。

    四

 私の父は、私が生れたので、必死に働き出したらしく、私が小学へ入った年か、幼稚園の後期時分か、同じ町の西方、三十七番屋敷へ移った。ここも今、すっかり、家が新らしくなってしまったが、店の間が三畳、次が二畳と押入、奥が二畳半である。ここで、中学を終えた。
 幼稚園生活は、然し、子供の事故《ことゆえ》、すぐに慣れたらしいが、病弱の私は、いつも、薄氏の所へ通っていた。処方箋に「△」の印がついていて、父は、これを指して
「宗一、これは無料という印やで、皆、孝次さんの御蔭や」
 と、父も、孝次の秀才は、認めていたらしく、母の方の事は、よく悪口云うが、孝次氏にだけは感心していた。
 学校は、桃園尋常小学校と云って、内安堂寺町の高地と、空堀筋の高地との間に挟まれている窪地にあったが、この辺一帯を「のばく」と称して、貧民窟であった。だから、中学へ入った人が少いし、私と、首席を争った「錦」という子は、例の団子屋の息子であるし、もう一人の藤原は、砲兵工廠の職工の息子であった。私が、中学まで行くと聞いた時、二人は
「植村はええな」
 と、羨んだのを、未だに、まざまざと憶えている。その当時の私は、二人に対して、得意であったが、いつも、この三人で、首席を争っていた事を思出すと、少し、感傷的になってくる。
 この「のばく」――私の家のうしろが、丁度「のばく」と、崖になっている高見であるが、この下に、今大阪の落語界で、大立者と称されている九里丸が住んでいた。
 九里丸の話によると、彼の四軒長屋は、出世長屋で、四軒とも、相当の人物になったと、その名まで挙げていたが、私は、関係がないので、九里丸の外に知らない。
 この人の父が、大阪中を風靡《ふうび》した、東西屋(チンドン屋)の元祖九里丸で、大阪奇人伝中の一人である。夜になると、囃子《はやし》の稽古をするので、私達子供は
「のばくの狸が、又囃しとうる」
 と、云っていた。この長屋と、一度、上下で、石合戦をした事があった。私は、もう尋常二三年位で、誰にも劣らぬ乱暴者になっていたので、石を投げていたが、その一つ――誰のかが、九里丸長屋の赤ん坊に当ったため、親父が出てきたので、一目散に逃げ出し、家の中へかくれていた事があった。
 一つ、北の通りが、十二軒町と云って、役人の邸跡であるが、そのつづきの神崎
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