憶えたが、唄った事もないし、剣舞の真似をした事もなかった。矢張り、読み、書くだけであったが、特務曹長は、二年の間の、二度の休暇に、この二つの見せ物を見せて、私に、千日前のある事を教えてくれた。
所が、千日前よりも、私には、もっと、魅力のあるものが、近くへ出来た。辻という貸本屋である。鹿やんに、お伽話《とぎばなし》を聞いていた私は、そういう種類を、暫く中断されていたが、この貸本屋が出来て、講談本が、棚へ陳《なら》ぶと同時に
「宗一、又、きてけつかる。浜はんへ、行かんか」
と、父が、怒鳴りにくるようになった。この貸本屋で、いかに、私は多くの講談本を読んだか? 「誰ヶ袖音吉」「玉川お芳」などの大阪種の、侠客物の味は、まだ忘れられない。
九
植村宗一、直木三十五の外に、私は、北川長三、竹林賢七というペンネームを、一年か、半年もっていた事があるが、その外にもう一つ、安村宗一という名がある。これは、私も、その内に、忘れてしまうかも知れぬから書いておくが、私の両親が、結婚したのか、私通したのか、とにかく、尋常小学へ入学した時の私の姓名は、安村宗一であった。善意に解釈すると、母の安村静が、長女であったが為、植村へ入籍できなかったせいであるが、悪意に考えると、何うも、父母は、公然と結婚したのではないらしい。私も、結婚をした事はないが、貧乏と[#「貧乏と」は底本では「貧之と」]共に、矢張り親譲りのものである。
弟を背負ったり、惣菜の買出しに行ったりしている間に――尋常四年の頃であろう。その時の光景を、今でも、明瞭《はっきり》と憶えているが「のばく」から、通りへ出る坂の右側に「金時湯」という湯屋がある。その前で、一人の女に逢うた。その時
(きれえやな)
と、感じたが、これが私の初恋らしい。この女は、すぐに、同町三丁目の露路の中にいる畠山しげ子だとわかったが、この事を、友達に話すと、貧乏人街の早熟の子供は、ことごとく知っていた。この女の家が丁度、惣菜の買出しに行く道筋に当るので、それから二三日は通って顔を見たいし、気まりが悪いし、大いに困ったことを憶えている。
だが、それは、ほんの僅かな間で、同じような綺麗な娘が、斜向《はすむか》いの薬屋にいるのに、それに対しては、何んの感情も動かなかったのだから、ほんの子供心の恋情にすぎなかったのであろう。それにしても、十一歳か、十二歳の時で、今だに、名まで憶えているのだから、相当なものである。
この薬屋の娘さんは「おんちゃん」と云った。西村房という名であるが、何故「おんちゃん」と呼び、呼ばれていたか、今でもわからない。私の父は「鬼ちゃん」と呼んでいた。いくど、母に
「そんな名、おますかいな」
と、叱られても「鬼ちゃん」と云っていた。父は、手紙の冒頭へ「真平御免」とかいて、これが、立派な挨拶だと信じているのだから「おんちゃん」を「鬼」にする位は、何んでもない事である。
この「おんちゃん」の所へ、遊びに行って、初めて、毛糸というものを見て、びっくりした事がある。こんな綺麗なものが、世の中にあろうかとか、こんなものを「おんちゃん」みたいな子供がもって、とか、そういう驚きであった。家は、木薬《きぐすり》店(生薬が正しいか)で、西洋流の売薬と、漢薬との混沌期であったらしく、店先に、蜜柑の皮が、一杯干してあったのを憶えている。
十
私の家の東隣りが、小間物屋であった。ここの職人であったか、ここへ来る人の内であったか、その当時から、将棋の強い人がいるという事を聞いていたが、今思うと後の七段神田辰之助氏らしい。神田という名も、辰やんという名も、記憶の中にある。その東隣りが日比野という呉服店で、こっちは、古手屋で、商売敵であるから、私も、決して、遊びに行かなかった。
その隣りが、堺の名産、大寺餅の、名だけを使用している安餅屋であった。これは私が、九つか、十位の時に、開店したらしく、開店の日の、大安売りにだけ、この餅を買ってもらった。
その隣りが、前にかいた貸本屋である。神田伯竜口演の「太閤記」七冊つづきを、一日の間に読んで、見料二銭。父が叱るので、母に頼んで、この見料をもらうのであるが、私が子供の上に、貧乏であるし、近所でもあるし、とにかく、一寸、立っている間に、半分位は読むので、本屋の方で、私の立読みを黙許してしまってくれた。
それから弟を、子守してやると云って背負って出ては、ここへ入込んだ。その内に、講談本のみでなく、渋柿園、涙香、弦斎、というようなのが入ってきた。これは少しむずかしすぎて、読むのに骨が折れた。そして、読書力の低い、この町の人々は、講談の本がよいらしく、この三人の外に、柳葉、春葉が入ってきたまま、通俗小説は、来なくなってしまった。「金色夜叉」や「不如帰」を読んだのは、遥かに後であった。
この貸本屋一件が、転じて、図書館行になるのであるが、私が尋常小学を出て、高等小学へ入ると共に、成績が、中位になってしまったのは、この貸本屋の御蔭である。
尋常小学での、私の記憶は、この位しかない。幼稚園で、初めて習った唱歌が
[#ここから3字下げ]
霞か、雲か、はた雪か
とばかり匂うこの花盛り
[#ここで字下げ終わり]
であるとか、日清戦争の直後とて
[#ここから3字下げ]
煙も見えず、雲もなく
風も起らず、浪立たず
[#ここで字下げ終わり]
のような軍歌が、盛んだった記憶があるが、それは、私一人だけの話でないから、省いておく。
十一
高等小学校は、空堀筋、骨屋町角の、育英第一高等小学校というのである。何んしろ、制服制帽を着るのだから、うれしくて写真をとって、大和の親類へ送った。こういう写真があるとなつかしくていいが、家ぐるみ差押えられて、素っ裸にされた時、その中へ入って、何っかへ行ってしまった。雑誌から、時々、子供時分のをと云ってくるが、私の写真は、それ故、最近五年以内のものの外一枚もない。これが、私が写真をとった最初である。その次は、卒業式の時、中学へ入っても、卒業式の時のだけ――だから、余計、この写真の無くなったのが惜しい。私の子供時分のたった一枚の写真である。
高等小学へ入っても、学校の生活以外は、子守、洋燈掃除、惣菜の買出し、丁稚《でっち》代りであったが、そろそろ大きくなるにつれ、今度は、父が
「店番しろ」
と、云い出した。父が、買物に出ている間、母が夕飯の支度でもしていると、店へ客が来ても、便利が悪いので
「十三にもなったら、店番でけるやろ」
である。
「うん」
「符牒《ふちょう》教えたる」
古着屋の符牒は、今何うか知らぬが「タカラモツシヤワセ」というのであった。これへ、五をかける。だから「タ」は、五銭か、五十銭か、五円かである。「タツ」は「タ」を五に五番目の「ツ」で、五に五をかけて、二十五、計七十五銭が元値で、これに、一円四十五銭位の札をつけ、二十銭引いて、一円二十五銭で、五十銭の利というようなものである。
「おい、坊《ぼん》さん(小僧のこと)まけとき」
と、云われて
「まかりまへん」
と、本を読んでいた記憶が可成りある。こんな時には、狭いから、すぐ母が出てきて、応接する。私は、母と入れかわって、台所へ出て、菜を洗う、というようなものである。
この店にいる間に、着物に対しての智識は、相当にできた。私が、早稲田へ行っている頃まで、着物は、今のようにいろいろの名がなかった。縮緬《ちりめん》、七子《ななこ》、市楽、薩摩、御召、大島、結城位の区別で、その上に、何々御召と名のつき出したのは、ここ二十年位の事で、私は、父が
「こう、変った名ばっかりつけよったら、一々憶えられんがな」
と、ぶうぶう云っていたのが、今でも、眼の中にある。
それから、解き物がうまい。これは、今でも自信がある。古着は、着物の形のまま売って利のある事もあれば、表と、裏とを離してしまって、別々に売って、利の多い事もある。この表と、裏とを離すのが、両親より遥かに早かった。鋏《はさみ》を一つ、ぱちっと入れると、殆ど、あとは鋏なしで、解いて行く。古着だから、糸が弱っていて、ぶつぶつ切れるが、それを切らずに解くのが技巧で、自分ではおもしろくて、解き物は一手で、引き受けるようになった。
この時分、もう一つ上達したのは、飯焚きと、菜をつくることで――これは、後日になって、私の妻が、貧乏の最中、子供を産んで、寝ている時、私が、幾日か、飯菜を作って、その料理の種類の豊富さと味のよさとに、びっくりさせたものである。沢庵漬から――貧乏ぐらしの惣菜一通りは心得ている。ことごとく幾年か手伝った御蔭である。
十二
高等小学へ行くようになってから、教科書以外の本を買ってもらえるようになった。それも、一冊一月がかりで、だましたり、悲観したり、母から半分もらって、残りをねだったり、相当苦心を必要とした。
その時分、私の家へ一人の食客がくる事になった。松原貴速という人である。その人の為に、物置になっている二階へ、南向きの窓を開けて、畳を敷くことになった。
この松原貴速という人は、長州の俗論党の錚々《そうそう》たる人であったらしく、旧姓山県九郎右衛門という(この人について、御存じの方は御一報願いたい)、後に、石清水八幡の宮司となり、生玉神社にも仕えたが、遂に、浪々の身となって、何ういうのか、父が世話することになったのである。
当時、父の、一番崇奉していた人は、大和の代議士桜井某で、この人が、時々来ては
「えらい人や、世話しとき」
と、云われて、うれしがっていた。二年か、三年も居られたであろうか。中学へ行く時分、もう居なくなって、そのあとが私の部屋になったのであるが、この人へ、飯をもって行くのが、私の役目であった。矢張り、家へ戻ってきて、午餐《ごさん》をとるのであるが、母は、仏前へ飯を上げると、次に、この老人の所へもって行く。私が上って行くと、老人は、上品な、白髪、白髭で、歯がなく、もぐもぐと口を動かしつつ、微笑して、私に何か云うが、少しもわからないので、おしまいには、段の途中から、膳だけ置いて、降りる事にしてしまった。明治二十何年からの日記が、ことごとくあるが、読みづらいので、そのままにしてある。
この頃、いくらか、商売がよかったらしく、品物が店に狭いまでに置いてある日などがあった。それにしても、今、数えると――店の入って左側に吊るしてあるのが八枚、その奥に十二三枚、店に二列に、縦にかけてあるのが十六枚、その着物の間々に、股引だの、襦袢《じゅばん》だの、一枚二円ずつにしても、六七十円の品である。
しかし、三円から、六七円の売れ行きがあったし、三割近い利益であったから、店のこの小売と、仲間同士のやや大口の商売で、六、七十円の収入にはなっていたらしい。
「月、百円儲かったらなあ」
と、云っていたのを考えると、この辺は間違っていない。私が、十三四、親が、五十三四であるから、この収入が、父の最大収入であったのであろう。
十三
高等小学の記憶は、尋常よりも少い。その代り、少しずつ、乱暴者になりかけていて、こういう記憶がある。
それは、この当時まで、大阪には、堂島高等女学校より外に、女学校が無かったが、京都に、清水谷高等女学校ができた。この女学生が、学校の前を通るが、雨天運動場へ出ると、すぐ前が、空堀通なので
「あいつ、別嬪《べっぴん》やな」
とか
「左向け左っ、こらっ、鼻ぺちゃ、向かんか」
とか、私の外、二三人がやり出して、とうとう、雨の日には、女学生達、向う側を傘でかくれて通るようになった。所が、一日、金曜日の訓話の日、校長が
「本校の生徒の中に、品性を重んじない者がおって」
と、やり出して、とうとう、窓側へ、近づけないように、雨の日には、生徒の中から監視が立つ事になった。中学へ行ってから、夕陽丘女学校ができたが、私と河合二人が、夕陽丘の、藤原家隆の墓の前へ立って、女学校の方へ向いて、四人とも、小便をし、これが、市岡中学の生徒と、何うして判っ
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