に、憤慨したものである。市岡中学が、野球で、大阪府下を圧したのも、その時分から。柔剣道にかけては、絶対に、市岡のものであった。
この中堅会の大将は、東惣平で、私は弱いから、そういう事には出ず、煽動ばかりしていた。
学友の間では、そうだし、教室へ出ると数学や、英語の時には、小さくなっているが、漢文や、歴史の時には、何んとか、かとかいうし、ある時なんどは、漢文の先生と対立して下らず、東惣平が
「植村、黙れ」
と、云って、立上った事さえあった。そして、四年の時の、演説会に「試験亡国論」というものを弁じて、とうとう
「あいつ、退学ささんといかん」
という事になった。暑中休暇の初めであったが――その時に、木村先生と、体操の式田先生とが、大いに弁じてくれたし、休暇中に、うやむやになって、危く、五年まで行ったが、この衣鉢《いはつ》を、黒田新(帝展特選になった洋画家)がついで、時々学校をやっつけていた。
この中学通学中、命を亡《うしな》いかけた事が二度ある。一度は、河合という友人の家へ行った時、ピストルを河合が放った。装弾していないつもりで、口を私の方へ向けていたが、入っていて、私の耳とすれ
前へ
次へ
全90ページ中40ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング