三十七
「うむ、何うも」
と、いうより外に、友人が来ても、話をする興味が無い。第一に、それらの友人は、ことごとく就職してしまって、そうは遊びに来ない。本は売ってしまって読むものはないし、入質したものを、古着屋へ売って、その差額を幾度か得た。これは、古着屋の常だから、こういう方法を知っているのである。友人に、金を貸せということは絶対に云えないし、貸す余裕のある者もいないし
「魚なんかいいよ、お前は、乳が出るんだから」
と、云うようなことになると、強気の女房も、少しずつ悄気《しょげ》出した。ある日、求人欄を見ていると、当時、日比谷公園の、今の――美松の前辺に、いんちき横町、山かん横町というのがあったが、そこへ入る所に、木造洋館の「実業の世界社」があった。そこで、記者を募集しているのである。私は、女房に黙って、家を出た。懐中に、十二三銭もあったから、往復切符を買おうか、片道にしようか、この一銭の差で、可成り考えて
(一銭損でも、職にありつければいい。もし駄目だったら復券は食事にならんから)
と、駄目なら、帰りは歩くつもりで、出かけて行った。取次が、二階へ上れ、と云うので、二階へ行って、云われた扉を開けると、右側の机に、くりくり坊主の男がいて、こっちを向くと
「もうきまった」
と、云って、又机に向ってしまった。これが安成貞雄氏であった。私は、暫く呼吸もしないでいたが、それから、お濠の端を、早稲田まで歩いて帰ってきた。このことは、未だに女房は知らないであろう。私は、こういうこととか、困ったとか、何うしようかと云うようなことは、一切女房に云わないし、女房も又
「何うしましょう」
というような種類の言葉は、決して口にしなかった。これは、貧乏に処する一つの方法である。私の家が古着屋故、着物を送らすのは、金を送らすよりも便利であったから、時々口実を設けては送らせたが、それは、高の知れたものであるし、その着物を送れと書いた手紙に貼る三銭切手が買えないで、幾日も床の間の上に置いてあるようになった。米屋や、八百屋に借金が出来て行った。隣りの大家に見つからぬようにしなくてはならぬようになってきた。
三十八
保高が
「君の妻君、文章が書けるかね」
と云ってきてくれた。
「文章って、手紙位なら」
「実は、婦人記者が一人いるが、勤めるか。木の実ちゃんがあって、駄目かも知れんが、困っているなら」
女房が
「やります、保高さん、何んな事でも」
「しかし子供が」
「子供は、僕が育てる」
「そうかね。月給は十八円で、電車のパスが二冊出るんだ。そして別に手当が五円だけれど――」
「結構だわ、保高さん、頼んで頂戴」
女房は、必死であった。
(見っともない、騒ぐな)
と、私は一寸、睨みつけたが、うまく行ってくれと、心の中では祈っていた。この時の読売婦人欄の主幹が、前記の前田晁氏、上司小剣氏も在社された頃である。
「青野も、保高もいるし、やってみろ。一ヶ月でもいいや、十八円ありゃ助かるからな」
「そう、じや、社へ明日来てくれますか」
「伺います」
今、大朝《だいちょう》にいる恩田和子女史も、この時の記者であった。五月頃であったであろうか、女房は婦人記者として、読売新聞へ勤める事になったが、亭主の私は、何うであろう。生れて一年足らずの長女のお守である。私が、あぐらをかいて、左脚の所を枕に頭をのせ、脚を私の右脚の上へ置くと、子供は、あぐらの中へ、すっぽりと入ってしまう。これを、上へ下へ動かすと、子供は快く寝るが、男の子守はやってみるといい。女は何《ど》うかと思うが、揺籠《ゆりかご》よりは柔かく、子供にはいい籠である。そして、ゆり上げ、ゆり下げつつ、両手で、新聞を見、本をよみ、物をかくのであるが、女なら毛糸や、刺繍位はやれるであろう。ミルクの調合も上手であるし、時々大家の婆さんが見にきて
「泣かない子ね」
と云ったが、私の子守は天才的に上手であった。それから十月の三十日まで、子供には風邪一つ引かさなかった。真夏には、湯屋へ行って、三時間位、親子二人裸で、この揺籠をゆりつつ、暮らしていた記憶がある。
その内、子供が、母親の乳と、顔とを覚えるようになった。当時、江戸川が電車の終点であったが、夕方になると私は、子供に早く母親の顔を見せてやりたいので――決して、私が女房の顔を早く見たいのではない――江戸川の堤を、子供を抱いて、終点へと行くのである。雨の日には傘をもって――それは※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]であるが、私を考えさせる日が、十月まで半年つづいた。
女房の帰りを迎える為に、菜を煮、米をかしぎ、座敷を掃除し、時々は、洗濯までしながら、生活について考えた。書く、という事を第一に考えたが、人の書くような小説を今更書
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