が、一枚二十銭の稿料である。そして――まあ、何んなものか、諸君はやってみて、その困難さを知るがいい。
上巻は出たが、下巻は出ぬ。下巻が出るまで待つ訳に行かぬから又、読んでは書いたが、下巻へかかって暫くすると勇気を恢復《かいふく》して、とうとう二百枚にちぢめたが、この本はもう何処にもあるまい。発行所は、今の精文堂であったらしい。四十円もらった時には、然し、うれしくって、嘗て一度も、先生の家へ、物などもって行った事の無い私が、女房に鯉をもってやらせた。そして七円で、長火鉢を買った。初めて稿料をもらった記念にである。この長火鉢は、震災でなくなってしまった。
三十五
所で、ここに、一つ秘密を書かなくてはならぬが、ある日、私が戻ってくると、女房と、友人の某とが、炬燵の中に入っているのである。勿論、坐っていたが、炬燵へ入るには大抵、差向いを原則とするのに、友人と女房とは、三方を空けておいて、一方に二人が固まって、くっついているのである。私は、見るべからざる物を見たような感じで逃げ出そうと思ったが、小さい家で、格子も、障子も開けて見てしまったのだから、何うする訳にも行かない。二人は、一寸赤くなって
「やあ」
と、友人は云いつつ、少し離れるし、それをしおに、女房が立上ったが――ただそれっきりの事で、何ういうものか、私には嫉妬とか、不快とかの念が少しも湧かなかった。二人とも信用しているし、友人の云う事には、決して反対しない私の性として、そのまま二十年近くをそれは問題にしていなかった。所が、この間、ある話の序《ついで》に、ふっと、この事を思出して
「何うかねえ」
と、久米正雄君に云った。湯河原の温泉に於てである。
「ふむ」
久米君は、微笑して
「里見君は、あると云っていたが」
「何うも、そうらしいようでもあるが」
話は、これだけであるが、これに連関して、それから、二十年の後に、大事件が起るのである。
この事は、秘しておいた方がいいかも知れぬが、何うも秘密をもつのが嫌いなので、書いておく。
三十六
四十円という金と、二ヶ月という時日とはすぐ消えてしまった。父の送金は、とっくにないし、女房の臨月は近づくし、青野と二人で
「困ったなあ」
と、云って、毎日、新聞の就職欄ばかりみていた。
「よしなさいよ」
と、女房に、本気に叱られた事さえあった。
「何うにか成るわ、くよくよしなさんな、こっちが悲しいわ」
と、女房は取上げた新聞をもったまま、快活に云った。その内、一日、保高が
「読売新聞に一つ口があるが」
と、云ってきた。そして
「前田|晁《あきら》氏に逢うて、詳しい話をしてみないか」
と、晁氏の住所を教えてくれた。それで――何処であったか、郊外の晁氏の所へ行くと、二三、簡単な話があって、帰されてしまった。翌日、保高がきて
「君、いけないよ。応接の態度が、記者に適さんのだ、君、格子戸を開けて、首を突込んで、前田さんはと云っただろう」
私は、この時、我慢のならぬ不快さを感じた。その時出てきて、私が首を突込んだのを見たのは、晁氏でなかった。
(晁氏ならとにかく、嬶や女中が何んだ)
と、怒ったのである。
「それがいけないんだね」
「そうかなあ」
この座に、青野季吉が来ていて
「僕を紹介してくれないか」
と云った。青野が、読売へ入ったのは、この時である。そして、とうとう私は、一人だけ取残されてしまった。保高が、気の毒がって
「博文館へ話するから、談話筆記でもとらないか」
と、云ってくれた。それで、かかりの人に逢うと
「鎌田栄吉さんを訪問してきてくれませんか」
と、いうのである。
「そして、五枚位に書いてもらいたいんだが」
私は、すぐ鎌田氏を、慶応義塾に訪うた。
「明日午後一時に来なさい」
というのである。その日に行くと、氏は、部屋から出てきて、私の待っている廊下――庭に面した廊下へ立ったまま、青年に対する訓戒の言葉を話された。私が、それを筆記し終ると
「見せてもらいたい」
と仰《おっ》しゃった。私はその日、戻るとすぐ清書して送ったが、それっきりである。私は、筆記もとれないらしいのである。その内に、子が出来た。「木の実」という名をつけた。産婆と、隣りの婆さんとに
「家にいてはいけません」
と、云われて、早稲田のグラウンドの周囲を二時間の余も、歩いていたのを憶えている。戻って来ると
「二人とも達者だよ」
と、婆さんは、云ってくれたが、私は
(何うして生活すべきか)
が、第一であった。父にとっては、初孫であるし、いい時に生れやがったと、すぐに、父に無心さした。着物に金を少し送ってきた。ほっと一息ついたが、それはほんの一息である。本をことごとく売り払い、着物のいい物を、ことごとく入質してしまった。
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