事だとおもうが、そういう人に逢った事はない。
小中学で、本当に、智慧なり、人格なりに、影響を与えてもらった人だったろう。恐らく、親よりもなつかしいと思われるが、そうした教育者は少いらしい。
大阪という土地は、故郷という気のしない所であるし、小中大学に、学校のなつかしさの無い人生は、相当に淋しいものである。
私のように、その精力以上に、働いている者は、時として、故郷というような所で、深い安息を求めたい気がする。
私は、新居へ移ると共に、私の部屋へ引っ込んで、自分で炊事できるだけの道具――土釜、土鍋、七輪の類をととのえた。隠居の志が可成り、深い所に潜んでいるらしい。
何か一つ、ショックを受けたら、私のような人間――負けずぎらいで無理してきた人間は、一度に敗けて、田舎へ逃げるかもしれぬ。
こういう事が無くても、一人で飯を焚き、一人で暮らしている生活をしたい望をもっている。だが、私の係累《けいるい》は、ことごとく、私より若く、強い。矢張り、私は働きづめに死ぬのだろう。
三十三
私が早大を卒業――というのはおかしいが、クラスメートが卒業したので、私も遊びに行けなくなった時に、もう小説を書いて、売出していたのが、谷崎精二、広津和郎、舟木重信氏らで、国枝史郎が「レモンの花の咲く丘へ」とか「胡弓の弦の咽び泣き」とかという題の作を出したのもその頃である。
同級生の中では、同じ姓が、競争させるのであろう。細田民樹と、源吉とが「早稲田文学」へ創作を発表した。卒業の前から、保高徳蔵は「読売新聞」に新設された婦人欄の記者として、試験をパスして、就職するし、鷲尾浩が、レートの広告部へ入って、月給四十円。
「うまい事しやがったな」
と、吾々は、その月給の高を羨んだ。田中純に、宮島新三郎などは、相馬御風氏から仕事をもらっているらしいし、西条八十は、株式相場で生活していると聞くし、それぞれ生活の心配が、何うにかなくなって行く内に、いつまでも職の無いのが、青野季吉と、私とである。二人とも、女房がある。私は、そんなに喧嘩をしないが、青野は、よく夫婦喧嘩をして
「ま、ま、又やってきた」
と、どもりながら、半日位遊んで行った。在学中、私は早稲田美術研究会の幹事をしていたが、その縁で紀淑雄先生から、日本の美術に関した本を全部書上げてくれないか、出版部から発行するから、という話があった。私は、すぐ金にならぬが、何もする事が無いし、仕上げたなら金になるだろうと、父に
「こういう仕事があるから、それの終るまで、毎月今まで通りに送金してもらいたい。就職口は、そう急にないし、大阪へ帰ってはいけないから、是非たのむ」
と、云ってやった。期間は三ヶ月と切って、それ以上はいらぬ、とつけ加えた。坂崎|坦《しずか》氏、森口多里氏など、この研究会の幹事であったが――それから、三ヶ月、毎日、上野の図書館へ通った。今何うか知らぬが、いつも満員つづきで、待たされるのに、いらいらしながら、古来からの東洋美術に関する書籍をことごとく調べて、書上げた。所が書上げると同時に
「出版部の都合で中止になった」
と、云われてしまった。私は、大してこういう事に憤慨したり、怨んだりする性質ではないが、失望はした。そして、こんな事は、一切女房に打明けない性でもあるから、仕方が無いと、一人であきらめて、又、青野と夫婦喧嘩の話をして日を送っていた。
三十四
その内に、田中純が、一つ仕事をもってきてくれた。それは、当時「アカギ叢書」という十銭で、何んな事でもその梗概だけはわかるという本が出ていたが、それが売れるので、それの模倣の十銭本が、いくつも出たのである。私のは、その中の一つで、トルストイの「戦争と平和」を、二百枚にちぢめて書いてくれ、原稿料は四十円。名は、相馬御風氏のを借りるという仕事である。
「翻訳は出てないだろう」
と、聞くと
「無いねえ」
大変な本である。読むだけで、十日や、二十日はかかる。私は四十円の稿料が、灼けつくように欲しいし、見ただけでうんざりする大部の書物を考えると、暗くなってくるし、大抵の事は即答する私であるが、一寸考えこんだ。しかし
「やろう」
と、云わ無い訳には行かなかった。それから並製本の「戦争と平和」を買ってきて、読みかけたが、三四十頁も読んで、ようよう梗概が二三行しか書けない。私は、幾度か投げようかと思ったが、四十円あると、夫婦で二ヶ月暮らせるし、女房は妊娠しているし、三四日、半分怒りながら書いて行った。三分の一仕上げた頃から楽になって、少しずつ進みかけたが、半分を終った頃、小川町の国民文庫刊行会という名著を大部な予約で出版する家から、「戦争と平和」の上巻だけが出た。私は今までの経験で、この時位がっかりした事は無かった。金高は四十円だ
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