金でもあったら、そのかかりの銀行員でもいい、発見した人に進呈する。
三十
その小さな新居で、今、これを書いているのであるが、午前五時十六分前、徹夜である。これで、肺病が治るであろうか。
暖房装置がまだ出来て無いので、炭火である。そろそろ空腹であるが、女中二人と、娘一人っきり(読売新聞の結婚談は大※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]である)、神経痛で、腰が痛むから、尿瓶《しびん》を置いて、用を足す位で、勝手へ行って、パンを焼く気にもなれない。
明日の起床、午後二時、太陽は、少し右へ廻っているから、折角、縁側を広くして、日光浴でもして、と考えていたのも、全然駄目で、朝は、腰が曲らぬから、がさがさと赤ん坊のように這いながら、この縁側で、ようよう新聞を読む位。
東京へ出る日には、アトファンを、寝る前に飲んで、朝痛みの少いようにしておいて、あんよは御上手程度に歩く。
しかし、こんな無茶をしていながら、痰《たん》が少くなり発熱も、低くなり、咳《せき》も少くなった。六月頃まで、横浜、東京間で、二十回位、痰の出たのが、この頃は、二三回である。
だから、いよいよ又、元の徹夜生活へ戻りかけているのであるが、これが何処まで押し通せるか?
私は、私の気力だけで癒すつもりをしているが、もし癒ったなら、闘病法を詳しくかくつもりである。無茶に似て無茶に非ず、私とて、今死にたくはない。
三十一
そこで、本文へ戻るが、私は、年増に惚れられる位であるから、何処か、いい所がなくてはならぬ筈だと、自分では考えていた(これは逆に、年増しか対手にしないのだから、取り柄の無い男だとも云える。この判断は、自分でよくわからない)。その、いい所は何処であったであろうか、という話であるが――早大グラウンド裏へ移転して、四円八十銭の家に住んだ時、裏手の家(四軒長屋)の妻君が、裏口へ挨拶しにきて
「同国人が入《い》らしたので、大変心強くおもいますわ」
と、云った。私の女は、腹をかかえて、飛んで上ってきて
「貴下、支那人やわ」
と、笑いこけた。
「何が支那人だ」
「裏手は支那人やろう。奥さんは、日本人やけど」
「うん」
「その奥さんが、同国人が来たので」
僕は、苦笑しながら、さては、支那人のように、のんびりしている所があるのかな、と思って
「似た所があるかい」
と、聞くと
「そう聞くと、そうかも知れん」
と、私の顔を正面から見たが、私は
(何言ってやがる、ちゃんちゃん嬶《かかあ》め)
と、思って対手にしなかった。所が、これは後日であるが、家賃も払えなくなって、間借りした時、若松町の湯屋へよく行った。
電車通り、大久保の方へ曲ろうとする所の右側の銭湯である。一日、人の居ない昼間――失業者には、風呂に限ると、ゆっくり、天井を眺めていると、三助が出てきて
「お国は、この頃、埃《ほこり》で大変でしょうな」
と、云った。いつこの三助、私の大阪生れを知ってるのだろうと
「東京と同じだよ」
と、答えると
「私は、これで、戦争に行って、約半ヶ年あっちにおりましたよ」
あれ、又、支那人かと、これは二度目だけに、私も、自分の顔の支那出来を、肯定しなくてはならんようになった。だが
「わかるかね」
と、いうと
「随分、あんた日本語がうまいが、矢張り、わかりますよ」
私は暫く、これから、その湯屋へ行かなかった。戻ってきて、この話をすると
「矢張り、あるのかしら」
と、女は答えたが、生活に打ちのめされていた頃とて、前のようにおもしろくはなかった。声高く笑えないで、微かに不快ささえあった。
これだけならいいが、大震災の時に、私の情婦を、巣鴨へ訪ねて行って、帰り途、護国寺の前へくると、自警団につかまってしまった。
「お前、朝鮮人だろう」
と、一人が云うが早いか、ぐるぐると取り巻かれてしまった。
「戯談《じょうだん》云っちゃあ困る」
「いや、朝鮮人だ」
「何んな面だ」
とか
「ちがうちがう、日本人だ」
とか、いろいろ周囲で騒いで、無事に納まったが、これで見ると、朝鮮式の所も、多少はあるらしい。
つまり、いくらかのんびりとしている顔で、そこへ女が惚れるのにちがいない。鏡で、自分で見ると、何処にも、そんな所はないが、人が見ると、いろいろに見えるものと見える。
三十二
学校の思い出は殆ど無い。
中学以来、学校は下らないものだと考えていたのが、確実になっただけである。
親でもなく、叔父でもなく、主人でもなく、先輩でもなく、先生という一つの尊敬と、なつかしさとをもった人格は、確かに、立派な存在であるが、私は、故郷をもたぬように、そうしたなつかしい先生をもたない。中学の木村寛慈先生が、ややそれに近いだけで、時々、先生はいい仕
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