悟した。時々、注射するだけで、殆ど養生をしていない。事実出来ない。
「何うして、養生をしない」
と、誰でも聞いて下さる。
「金がない」
「戯談《じょうだん》を」
馬鹿野郎め、あるか、無いか、一つ、裸になるからよく見てみろ。
二十九
昭和六年の、税金査定が、一万二千五百円である(この額が不当なので、納めなかったら、問題になった)。七年のが、二万千五百円。これも不当だから、審査を願って、これは、一万六千百七円、という額になったが、これから、私の実収入を推察するといい、月二千円内外と踏んでいいであろう。
月収二千円。女房(今はない)子が二人、妾(今はない)、家二軒もっていたとて、二千円なら、千五百円ずつたまるだろう――と、誰でも、こう見ているらしい。
だが、だ。昭和五年の税金を見るがいい。三千七百円(一万を落としたのではない。ただの三千七百円が、税額である)。その前年は無税。
私に今日、多少の名声がありとすれば、それは「南国太平記」からで、それまでは、貧乏以上の貧乏であった。昭和六年に「南国」を書いてから、ようよう月収が、千円以上になりかけたのである。これが、わからないと、私の貧乏はわからない。
久米、菊池、大佛、吉川なんぞという人々は、十年前から、一流の名声と、収入とをもっていた人であるが、私はようよう丸三年来である。
家族は、それでも同じで、妻、妾、子二人、家二軒。だから、いつも、ぴいぴいであった。そして「南国」が終る時分から、肺病にかかったから
「おれが入院すりゃ、明日から家族は食えなくなる。小さい家でも建てて、気長に、養生でもせぬと」
それで、七年の夏から、金沢に、四十七坪の、ほんの小さい家――書斎、次の間、茶の間、子供、女中の五間――何うだ、玄関もないし、客間も応接間もない、ほんの家族が、それぞれの部屋をもってるというだけの家を建てかけた。
所が、よく考えてみると、この話に出てくる父が、大阪で健在である。しかし、もういつ引取らなくてはならぬかも知れぬから、父の部屋を――と考えると、それが無い。それで、別に、私の書斎を、ドライコンストラクション式で、建てることにした。
所が、七年度の収入だから、月千二三百円である。前年まで、ようよう食えるか、食えぬかであったのだから、それだけの金が、全く一文も残らない。
妾宅、即ち、木挽町へ二百円(家賃百円、文藝春秋の倶楽部で、その頃は私が一切経費を出していた)、己の所が三百円(家賃は七十五円)、私の小遣、二三百円(交際費、貸金、旅費等々)として、建築費に廻るのが、五百円位の予算になった。
四十七坪、坪百円だから、一年足らずで建つ、と思ったのが、そもそも大まちがいの因で、この建築費の外に
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スチールサッシュ 一八〇〇円
山の崩し賃 七〇〇円
昼間電気設備 八〇〇円
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昼間電気位は来ていると私は思っていた。亀楽煎餅の別荘とか、佐分利公使の家とかがあるのだから、そんな事は考えていなかったら、こういうブルジョアめ、昼間電気無しでいたのである。私が、杉田から引っ張って来たら
「私の所へも、私の所へも」
こ――これでないと、金はたまらない。
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急設電話 約八〇〇円
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長者町局特別区域外で一町十八円ずつとられて、総額以上。
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配水、排水設備 七〇〇円?
温房設備 ?
目下設備中
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即ち、五千円の超過である。庭も、垣も、門もなくて、これである。月に割って、五百円――この外、小さいいろいろの物があるし、二三改めさせたから、四千八百円より高くなっているし、ざっと、一万二三千円であろう。
五百円ずつ余すつもりの所が、千円になっては、眼を剥く他はない。だから、大工さんに
「急がない、気長にやってくれ」
七年七月から建てかけて、八年の八月、何うにか住めるようになり、移ったのが、十一月の五日。
この家だけ貯金できた訳であるが、金が残るか、残らぬか、一寸、計算して見給え。八年度になって、月収二千円になると女房と別れなくてはならぬようになり、妾は出て行くし、収入は多くなった代りに、出る金も多くなった。
八月に出来て、十一月まで入れなかったのも、金の無い為である。諸道具一式女房にやったので、灰や、雑巾からして買わなくてはならぬ。一通り、道具を揃えるのに、二千円程かかっているから、何処で、金がたまるか? だから
「金は一文もないよ。入院したら、明日から食えない」
は、少しの偽りも無い言葉で、何処かの銀行で、僕の貯
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