勉強することもありませんから、三角はやりません」
 と、云った。数学の先生は、その学期の初めに、大学を出てきた人で、若い、おとなしい人であった。笑って返事をしなかったので、そのまま出てきた。
 当時は、新聞で「社会」という字をつかっても、睨まれた時代で「社会主義」などと云おうなら、今の共産党の十倍位、悪いものと考えられていた。その「社会主義」が、私の綽名《あだな》で、この綽名は、森――ニックネームを大砲という物理の先生がつけたもので
「植村は、学校の社会主義だ」
 と、とにかく、手に負えなかったらしい。何故、手に負えなくなったか? それは、私が、中学の先生を、軽蔑し、失望したからであった。
 私の中学に於ける不平から、云っておきたいことは、中学が、学問を教えず、教育を知らず、という事である。数学の先生はボールドへ式をかいて、答えをかいて、それっきりである。教師用の参考書のあることを知っている私達は
(参考書さえ見りゃ、先生だって、生徒だって同じだぞ)
 と、数学という学問の性質、尊さ、先生の人間的生活のえらさ、そうした教育の根本に、少しもふれないから
(一時間口先で喋《しゃべ》るだけで、何あんだ)
 小学時分は、心から、先生をえらい人だと思っていたから、先生の態度、教訓で、動かされたが、中学は、一つのビジネスにすぎなかった。「学校」は、師弟間の商売、ビジネスでないと信じていた私は、図書館で読む本なら、感激し、感謝したが、先生なるものからは、そうした種類の、いかなる小さい感化もなかったので、図書館はおもしろくなるばかり、学校はおもしろくなくなるばかり――とうとう先生の揚足をとって、楽しむことに、集中しだした。
「あいつ社会主義や」
 と、睨まれたのは、その時からである。しかし、多い先生の中には、私を可愛がる人もあった。今も猶、健在であるが、木村寛慈先生がその人で、この人の御蔭で、私は退学処分にならないで済んだ事件さえあった。

    十六

 理窟をよく云うし、鼻っ柱が強い、去年死んだ東惣平という弁護士。奉天にいる河合という乱暴者。台湾にいる内山。何《いず》れも柔道初段であるが、三年になった時
「三年生というのは、学校の中堅だ」
 と云い出して、中堅会というのを作った。
「一つ、中堅の力を見せとかんといかん」
 それから、四年の奴と、喧嘩しようということになって、つまらぬ事をきっかけに、雨天運動場の中で、喧嘩を起した。私は、旗竿をとって暴れ込んだ。四年の連中は、何が、何んだかわからないし、根が大阪の坊ちゃんが多いのだから、一時に逃げてしまって、喧嘩の対手が、忽ち無くなってしまった。そこへ、先生が来たが、喧嘩をしたのでない、しようとしたら逃げたので、――私は、旗竿をもって立っているだけである。
「喧嘩したんか」
「いいえ」
「その旗竿は」
「もってるんです」
「何んでもっておる」
「そこにあったから、もってます」
「もってはいかん」
「はい」
 それ以来、この中堅会が、羽振りを利かすようになって、四年になった時
「五年は、来年卒業するから、もう、学校には縁が薄い。四年が、学校の中心だ」
 という理屈をつけたが、夕陽丘で、女学校の柵へ小便引っかけたのは、この時分である。
 その代り、この年から、大阪府下中学の陸上運動会では、市岡が、いつも優勝で、とうとう三年つづけて、優勝旗をとってしまった。この優勝旗は、三年つづけて勝てば、永久にその校に止《とど》める、というのであったが、三年つづけると
「それは困る」
 と云い出して――私らは卒業後であったが、大いに、憤慨したものである。市岡中学が、野球で、大阪府下を圧したのも、その時分から。柔剣道にかけては、絶対に、市岡のものであった。
 この中堅会の大将は、東惣平で、私は弱いから、そういう事には出ず、煽動ばかりしていた。
 学友の間では、そうだし、教室へ出ると数学や、英語の時には、小さくなっているが、漢文や、歴史の時には、何んとか、かとかいうし、ある時なんどは、漢文の先生と対立して下らず、東惣平が
「植村、黙れ」
 と、云って、立上った事さえあった。そして、四年の時の、演説会に「試験亡国論」というものを弁じて、とうとう
「あいつ、退学ささんといかん」
 という事になった。暑中休暇の初めであったが――その時に、木村先生と、体操の式田先生とが、大いに弁じてくれたし、休暇中に、うやむやになって、危く、五年まで行ったが、この衣鉢《いはつ》を、黒田新(帝展特選になった洋画家)がついで、時々学校をやっつけていた。
 この中学通学中、命を亡《うしな》いかけた事が二度ある。一度は、河合という友人の家へ行った時、ピストルを河合が放った。装弾していないつもりで、口を私の方へ向けていたが、入っていて、私の耳とすれ
前へ 次へ
全23ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング